パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

誰が子供を育てるか

育児エッセイや漫画などでしばしば見られるシチュエーション。
育児を通じて夫婦が対立している。
妻は「もっと育児に関わってほしい」と訴え、夫は「仕事で疲れてるんだ」と訴える。
どちらの立場もよくわかるが、女性の社会進出が進む昨今においては、変化に対しアップデートできない男性側を批判する向きも少なくないだろう。
ただこの構図、少し立ち止まってよく観察してみたい。
こてこての二項対立。
しかし、そもそも育児は二項で語りえるものだろうか?

「誰が子供を育てるか」という問いに対し、「そりゃお父さんお母さんだろ」と考えるのであれば、先程の二項対立は避けられない。
当事者は2人しかいないのだから。
ただ実際に子供が育っていく上で関わっている人の数は、我々がパッと思いつくよりも遥かに多い。
保育士や学校の先生はもちろん、交通整理のおじさんや駄菓子屋のおばちゃん、あるいは会ったこともない人だって含まれるだろう、例えば学資保険のアイデアを出した誰かとか、アンパンマンポテトを製造してくれた誰かとか…あげだしたらキリはない。
問いに対し、我々は自由に答えることができるが、間接的なものを含めれば、ほとんどあらゆる人が子供を育てているというのが実態ではないか。
であれば、少なくとも先述した二項対立はあまりにもミクロな話だ。

以前友人に言われたことがある。
「子供を育てるのは両親だよ、当たり前だろ?だって当人の希望でやったんだから。少なくとも俺はあいつらが子供を持つことを希望したりしていない。故に俺には何の責任も発生しない。何かをしてあげる義理もない」
それはそれで筋が通っている。
しかし私は、「かく言う君だって両親によってのみ育てられたわけではないだろう」ということに加え、「それは持続可能なモデルではないのではないか」と感じてしまう。
極めて理不尽なことだが、人生には、自身がまったく関わることができなかった、その関わりを自覚することすら出来なかった他者の選択に対しても、責任を負わねば事態を好転させることができない、というシチュエーションが多く存在するように思う。
育児はその典型で、当事者の責任が最も大きいとはいえ、他者の助けなくして成立させることができない。
アメリカの古い諺に「子供を1人育てるには、村が丸ごと必要だ」とある。
鋭い表現である。

個人が割ける時間や労力には限りがある。
夫婦間の二項対立を克服するには、一歩ひいた視点で考えてみることも必要ではないか。
話のわかりやすさを優先して、あえてこれを1本のグラフ、2つの項目に分けて考えてみよう。
朝7時に出勤し、夜19時に帰宅する。
これを「社会のために使う時間」とする。
一方、それ以外を「自分のために使う時間」とする。
23時には寝ると考えると、「自分のために使う時間」はもう4時間しかない。
子供の就寝が21時だとしたら、子供と向き合える時間はほとんど残らない、暮らしを回すだけで手一杯。
そもそも「19時に帰宅できれば御の字だよ!」という人も多いのではないだろうか?
だとしたらいよいよである。

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こうした状況下で、もし社会の側が先程の友人のように、「育児は両親がするものである、我々には関係のない話だ」という態度でもってさらなる貢献を求めれば、「社会のために使う時間」は増え、一方で「自分のために使う時間」は減るだろう。
必然的に両親が育児をする余裕は奪われていく。
夫婦間の二項対立では、妻は夫に「育児者としての自覚を持て」と訴える。
しかしその自覚を持つべき対象は、あるいは夫だけではないかもしれない。
にも関わらず、子を持つことを選択した家族にばかり、自己責任の理屈で過剰に負担が集中するのであれば、不幸な話である。
時間や資金、場所、人など、育児に必要なものは多岐に渡るだろう。
社会全体で工面していくことが、明日の社会に繋がっていくように感じる。

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昨今、日本では少子化が進んでいる。
その原因は複合的で雑に語るのは危険だが、あえて大雑把に言うのであれば、今生きているこの状況が幸福でなければ、子を持ちたいと思う人は少ないだろう。
自分が生きているこの場所が、豊かで意義深く、生きるに値すると思えるものでなければ、どうしてそんなところに新しい命呼びたいなどと思うだろうか。
次世代への環境作りは、各方面で努力が為されていると思うが、恐らく十分ではないし、優先順位の高いものだと個人的には感じる。
この場所は、すなわち社会は、皆で作るものだ。
社会の助けなくして子供を生かすことはできない。
そして、さらに長い目で見れば…
子供の助けなくして、社会もまた生かすことはできないのだろう。

『幸福の門』補足

とかく「つまんなそう・・・」と思われがちな倫理。
どうしたらもっと興味を持ってもらえるのか・・・倫理教師として一つの課題だったのだが、ふと思いついた。
「漫画にしちゃえばいいんでね?」
とはいえ、哲人の思想や人生を漫画化したようなものであれば、すでに書店に売られている。
あまり学習が前面にでてしまうと楽しみづらいだろう。
理想は、興味をひきつつも、思わず考え込んでしまい、誰かと意見を共有したくなるような漫画・・・
なかなか難しいが、チャレンジとしては面白そうである・・・!
というわけで早速描いてみた。

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ここで一度足を止め、自分だったらどう判断するか、それは何故なのか、少し時間をとって考えてみてもらいたい。
納得できたらば後半に進んでみてほしい。

 

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いかがだったろうか。
私としてはこういった漫画は初めての試みであり、賛否両論が予測されるためハラハラしながらの投稿であったが、教材として使用する上で何か感想や意見などあればと求めたところ、Twitterでは嬉しいことに、予想以上に多くの反応をいただくことができた。
その全てに返答することは難しいが、以下いくつかいただいたコメントをピックアップしながら、少し考えてみたいと思う。

「作者が結論を提示してしまうのは、自由な思考の妨げになる、ある種の説教のようになってしまい、無粋ではないか」
これは私自身恐れていた点であり、気をつけたつもりではあるものの、改善が必要なポイントだと感じている。
この漫画の表現については、問いかけだけでぶつぎりにしてしまう(3Pで終わりにする)パターンも考えた。
しかし最終的には、ストーリーとして漫画を完結させつつも、色々な角度で考えてみてほしいと思った時に、一つ意見を添えておいた方が面白いかなと考えるに至った。
その際、主人公にくぐる選択をさせるのか、あるいはくぐらない選択をさせるのかについては、読者の予想を裏切る方が、別角度での思考を促すことになるだろう。
私は、読者はくぐる選択をする人の方が多いのではないかと予測していたので、あえてくぐらないサイドを描くことで、読み終わった後も頭の中に思考が残ることを狙った。
しかしこれはあくまで一つの考えとして描いたものであって、これが私の主張であるとか、ましてやこれが正しいと説くものではない。
説教になってしまっていたり、くぐる選択をした人を否定するような内容になってしまっているとしたら、それは私の表現力の問題であって、今後の課題である。
今回についても、もう少し中立をとる、誘導しない描き方があったように思う。

「状況によって結論が変化するのではないか。得たいものが絶対手に入らない、極端に望みが薄い場合は、皆くぐると思う」
なるほど…と考えさせられた。
確かに今置かれている状況が困難であればあるほど(余命幾ばくも無いとか)、門をくぐる動機は強化されるように思う。
しかし状況の違いは動機の強さにこそ影響を与えど、結果には影響を与えないと、少なくともこの漫画の主人公は考えたのではないかと思う。
ちょっと話がややこしくなってきたので、ここで門をくぐることによる結果について、少し考えてみたい。
通常我々は、何かしらの欲求不満を抱えながら生活している。
もっと痩せたいとか、もっと裕福になりたいとか。
一見してそれは、それ自体が目的であるように感じられる。
しかしよくよく検討してみると、実は手段だった、というケースも少なくないのではないか。
例えば、「痩せる」ということの背景に、「モテたい」という真の目的が隠れていて、実は「痩せる」こと自体は手段であったとか。
「裕福になる」ということについても同様で、お金持ちになること自体が目的ではなく、本当はお金を使って達成したい何か別の目的があるのではないか。
福沢諭吉そのものが私たちを幸せにするのではなく、それはあくまで手段で、何に使うのかという部分に目的が隠れている。
幸福の門は、望みを叶えると持ち掛けてくるが、どのレベルまで叶えてくれるのかは明言していない。
読者の思考を制限しない方が良いかと思い、あえてハッキリとは書かなかったのだが、その結果恐らくこの点で解釈が分かれたように思う。
もし幸福の門が、「痩せる」とか「裕福になる」という、真の目的までは至らない手前のところまでを都合よく叶えてくれる存在なのであれば、これは比較的おいしい話かもしれません。
もしそうであれば、同じ目標を目指すにしても、試行錯誤や苦労をすることを是とするか否か、あるいは結果に至るまでに起きうるランダムな要素を楽しめるか否か、といったところが主にくぐるか否かを決める上で悩むポイントになってくるように思う。
読者の中にも、ここまでの存在と判断して、くぐる選択をした人も多かったのではないだろうか。
しかし、幸福の門は実はもっとすごい奴で、背景にある目的まであますことなく全て叶えてくれてしまう存在だった場合、捉えようによってはかなり危険な存在である。
何故ならば、門をくぐったら最後、常に全てが満たされた状態になり、今後一切の目的や希望を抱けなくなってしまう(抱いた瞬間叶ってしまうので)可能性があるためである。
「あれやってみたい」とか「ここ行ってみたい」とか、そういったものが全てなくなってしまった状態で、ただ時間だけが残るようなイメージ。
いただいた感想の中に「大切な人を思えば、彼らの幸せのためにもくぐりたい」というものがあったが、仮に門が全ての望みを叶える存在だった場合、周囲の人間も他人事ではない。
「僕のことを好きになってほしい」と思った瞬間に好きになるし、「お前なんていなくなっちゃえ!」と思った瞬間に消えるし、「俺の言うことを聞いてくれよ」と思った瞬間に何でも聞くようになる。
少し角度を変えてみよう。
人生の意味や価値、といったものはどこに宿ると考えるか。
それを自分の外側に見いだす場合、どこかに絶対的な意味や価値があって、それは外から手に入るものなんだと想定した場合、門はタダでそれをくれるありがたい存在かもしれない。
しかし仮にそれを自分の内側に見いだす場合、人生の意味はどこかに置いてあるものではなく、あくまで自分自身が見出すもの、自分が自分に対して与えるものなんだと考えた場合、門は全てを根本的に奪うヤバい存在になりえる。
いただいた感想の中に「不妊治療をしているが望みは薄い、門をくぐれば妊娠できると言われたらくぐるのではないか」というものがあった。
困難な状況が、門へ向かわせやすくするようには思う。
ただ上記した通り、門が妊娠までで叶えることをストップしてくれるかどうかはわからない。
もしかしたら、妊娠後に抱くであろう様々な希望や目的についても、くぐった瞬間に全て叶えてしまうかもしれない。
そうなってしまうと、生きる目的を失ってしまいかねない。
何しろ全ては満たされるのだから。
人生の意味や価値を、人生の過程に見出そうとする人にとってはいよいよ絶望的である。
何故子供を望むに至ったのか、その理由はこれまでの人生の過程から導き出されたものではないだろうか。
不妊治療がうまくいくどうかはわからない。
しかしその過程が、例えばうまくいって妊娠できたり、あるいはうまくいかず養子をもらったり、はたまた夫婦二人の生活という結果に達した時に、何かしらの意味や価値を与えてくれる。
苦労してできた子だからこそ大切にしたいとか、親子の絆は血縁とは無縁であるとか、夫婦の時間をとことん楽しもうとか。
誤解のないように強調したいが、これはつまり「過程を重んじれば幸せになれる」ということではない。
善悪とはまた別の話として、例えば悲劇的な結果に至る場合においても、過程の中から我々は価値や意味を見つけてくるのではないか。
仮にそういう立場を採用した場合、門は結果だけを保障し、過程を奪ってしまうわけだから、我々は永久に価値や意味を見つける手立てを失ってしまうことになる。
感想の中に、「あらゆるものが満たされ、生きる理由すらも失い、最後は緩やかな死を望んで、それもすぐに叶って消滅するとしてもくぐる!」というものがあった。
悩ましいところである。

「人生に向き合うことを善とする、あるいは努力すること、苦労することを善とする価値観が提示されているのではないか」
色んな読み方考え方ができるように、ところどころ抽象的に描いたつもりなので、自由に読み取ってもらえたら嬉しいが、作者としては、主人公は努力に価値を見出してくぐらなかったわけではないような気がしている。
では何故くぐらなかったのかと言うと、先の返答で書いたように、門が徹底的に全てを叶えてしまう存在だった場合、生きる理由すらも満たされ、結果と過程、現在と未来が断絶されてしまうかもと、予感したからではないか。
これは、現状に困難を抱えている人ほど辛い選択である。
苦労や苦痛なんてない方がいい、と思うのは自然なことで、できればなくしたい。
でもだからといって、全てを根こそぎ奪われてしまっては、元も子もない。
今すぐにでも楽になりたい。
でもくぐったら「楽になりたい」という気持ちすら即に満たされて、何もなくなってしまうかも。
苦しみは嫌だが、人生の中に苦しみが内包されてしまっていて、そこだけ切除しようとすると、それはもう少なくともこれまで経験してきた人生とはまったく別物になってしまうと考えた場合、どちらを選んでも相当苦しい。
表現的な観点から言うと、最後のコマで主人公に笑わせてしまったのは、良くなかったかもしれない。
作者としては、この笑みを「人生の苦しみを背負った前向きな笑顔」とするか、「人生の苦しみを回避できないものとして達観した自嘲的な笑顔」とするかは、読者に委ねるような表現を目指したのだが、うまくいったのかどうか。
表情が見えないくらいが、いい塩梅だったかも・・・

「教材として使う際のイメージを知りたい」
自由に使ってもらえたら嬉しいが、導入に使うのが一番適しているように感じている。
まず最初3ページを読んでもらい、生徒たちに自分の考えを作ってもらう。
その上で、友人たちと意見交換をする。
この過程は個人的には結構盛り上がるのではないかと思う。
Twitterでも、他の人の考えを読むのは面白く感じてもらえたのではないだろうか。
他者の考えを通じて、自分自身の考えを深めることを楽しんでもらったところで、哲人たちはどう考えたのか勉強してみよう、と持っていくのが理想かなと思う。
具体的には、例えば幸福に着目するのであればアランとかショーペンハウアー、先述したような過程と結果、因果関係に着目するならカントとかヒューム、生きがいや希望に注目するならフランクルなど。
授業開始直後から、いきなり哲人登場して講義されるよりは、敷居が低くなり、ある程度気持ちが入った状態で聞いてもらえるのではないかと期待している。
ただ、「じゃあお前はそんな複数人の思想を縦横無尽に飛び交いながら、かつ内容を平易に、限られた時間の中で目標地点に綺麗に着地させられるのか」と言われたら全く自信がない。
話は変わってしまうが、何をするにも私は圧倒的に勉強不足であり、学校からの帰り道はいつも自分の無知さ加減に吐きそうになっている。
しかしながら、方向性としては面白そうではないか…?
面白そうだと言ってほしい。

我ながら引く程の長文になってしまった…
ここまで読んでくださった方、本当にありがとう…
有意義な取り組みにできるか不安だが、今後も気が向いたら描いてみたいと思う…!
また宜しければご意見お聞かせください!

ハーネスで考える

育児用アイテムの一つに、ハーネスというものがある。
迷子紐とも呼ばれる、体にくくりつけるものやリュックサックになっているものなど形状は様々だが、いずれも背中から紐が伸びており、親がそれを握ることで子供の動きを制限することができる。
昔から賛否両論ある道具で、「子供を犬のように扱うものである」として否定的に評価する人も少なくない。
しかし得てしてこういった賛否両論ある題材には、複数の要素が内包されている。
少し整理しながら考えてみたい。

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急に話題を大きく変えてしまうが、昨今のパンデミックに対する各国の対処法を参考にしてみよう。
予め申しあげるが、ここでは政治的なことを話すつもりはなく、あくまで思想的なことを話したいと思う。
了解の上で読んでもらえるとありがたい。
欧米ではロックダウンに代表されるように、場合によっては罰則も伴うような強い私権制限が実施された。
一方の日本では、「お願いベース」という言葉にもある通り、外出規制にしても休業にしても、基本は要請されたものであり、欧米のような強制力を伴うものではなかった。
日本の中には、欧米のような手法を評価する方も一定数いるだろう。
ただ当の欧米には、むしろ強い私権制限に対して警鐘を鳴らしている学者がいる。
いわく此度の政治判断の背景には、権力者がより強い権力行使をしたいという本音が隠れているのだと。
大義名分のもとに、権力の拡大を図らんとする邪な精神が潜んでいるのだと。
欧米では、連日に渡って行政のトップや幹部陣が、現状や今後の見通し、判断に至った根拠などをメディアを通して説明しているような国もあった。
そうした行政の姿勢を見て、いちがいに「でも本当は黒いことを考えてるんでしょ?」と批判する気持ちには私はなれないが、実際のところはどうなのだろう。
立場の差こそあれ、ここで衝突を起こしているのは、「国民の自由(何をやっても良いということでなく、自由を行使する主体である命や、そのための環境や秩序を含む)を守りたい」という論理と、「国民を支配したい」という論理であろう。
いわずもがな尊重されるべきは前者である。
ロックダウンにせよ休業要請にせよ、前者に基づくものであれば、やや大味な表現をするならば、自由を保障するための不自由であれば、容認される余地がある。
逆に、どんなに穏和で静かな方法であろうと、後者に基づくものであれば、国民の思考放棄を助長したり、諦めや自発的隷従を促すようなものであれば、それは看過し難いと思う。
我々の自由が最大限に発揮されるような選択が、我々には求められている。
欧米の学者による指摘は、為政者にとっては手厳しいものかもしれない。
しかしもし為政者が名君であるならば、むしろそうした自立的な意見がでてくることを内心では喜ぶであろう。

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前ふりが長くなってしまったが、コロナへの対応と、ハーネスには似ているところがある。
いずれも一見して不自由を前提とするものであるが、一方では命を守るものでもある。
重要なのは、その本質が、自由を助くものなのか、支配を助くものなのか、そのどちらなのかという点にあるように思う。
ハーネスに対し、「子供を犬のように扱うものである」と指摘する人間には、これがまさに支配を助くものに見えているのだろう。
子供を親の言いなりにする、都合よく管理しようとするものであると。
一方ハーネスの必要性を説く人からしたらば、これはむしろ自由を助くものである。
それがなければ自由もへったくれもなくなってしまうところを、むしろ保障してくれているのだと。
ハーネスに対する賛否両論の多くは、先に説明したような食い違いのもとに行われ、噛み合っていない。
しかしいずれの論者にも通底していることがある。
それは、「子供を大切にしたい」という気持ちだ。
コロナ禍に限らずあらゆる局面において、政治は国民を大切にしなければならないのと同じように、育児において子供は常に大切にされなければならない。
大切にする、とはつまり長期的な目線に立って自由を守るということであり、これは支配とは真逆の場所にあるものだ。

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毎日朝食を作っている。
ある日のこと、ピーナッツバターをぬったトーストをににの前に置いたところ、本人はシリアルが食べたかったらしく、退けられてしまった。
一瞬、ただでさえ忙しい朝にわがままを言われても困る…と感じたが、すぐに思い直した。
これは実に頼もしいことだ。
少し前までは、何を出されても食べるしかなかったところを、自分の食べたいものが把握できるようになったのだから。
以来、私は朝食を作る前に今日は何を食べたいか本人に聞くようになった。
毎回聞く余裕があるわけじゃないし、何でも用意できるわけではない、しかし彼にそれを考える力が備わった以上、できる限りは応えたいと思う。
このところは、スーパーで買い物をしている時でも、実際の食事をイメージして欲しいものを提案できるようになってきている。
やがては、一日の予定やとるべき栄養など、更に広い視点を踏まえて意見が持てるようになるだろう、自分で作ってみたいなんて思うようになるかもしれない。
現在私は、起きる時間から食べるもの、行く先やお風呂のタイミングまで、息子たちの一日の殆どを管理している。
しかしそれは支配するためではない。
私の考えや価値観に従わせるための訓練ならば今すぐやめるべきだ。
私は息子たちの自由がより発揮されるように寄り添わねばならない。
息子たちは見えないハーネスをつけている。
しかしこのハーネスは「つける」ためにあるのだろうか?
いいや「外す」ためにあるのだ。

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CALL4

「意見のある人は挙手してほしい」
と生徒に問いかける。
すると、どうも何かしら考えはあるようなのだが、実際に手をあげてくれる生徒はなかなかいない。
何故手をあげてくれないのかと聞いてみる、すると…
「あまり良いことは言えないだろうから」
と返ってくる。
そこで話をする。
「意見を示してくれる人は素晴らしい。
良い意見ならもちろん、仮に未熟なものであったとしても、それが足がかりとなって良い意見を引き出してくれるかもしれない。
勇気を出して伝えてほしい」
熱を込めて語る。
しかしそれでも生徒はなかなか手を挙げてはくれない。

今回私は訴訟を進めていくにあたって、NPO法人であるCALL4にご協力いただくことになった。
CALL4は、社会課題解決のために訴訟をしている人物や団体を支援することを目的としている。
漫画を読んでくださった先方からお話をいただき、支援をお願いする運びとなった。
支援の内容は様々であるが、中でも丁寧にお伝えしたいお金のことについて、ここでは書きたいと思う。
今回私は、CALL4を通して、クラウドファンディングという形で、訴訟費用を募る。
お金を集めるというと、「私の懐にお金が入るのではないか」という懸念を持たせてしまうかもしれないが、心配なさらないでほしい。
今回のクラウドファンディングの代表者は私ではなく、弁護団に立っていただいた。
詳しい使用用途についてはケースページをご確認いただきたいが、もしも資金が余った際にも、これは教育関係のNPOに募金させていただくことにしている。
お金が私を介することはない。
CALL4に掲載される各種情報については、出資してくださったかどうかとは関係なく、いつでも閲覧可能である。
他人様の大切なお金を受け取る、ということについては非常に悩んだ。
ただ正直、訴訟に関わる費用は大きく、行政裁判を個人負担で行うことの難しさを実感する状況ではある。
よくよくご検討いただいた上で、問題意識を持っている、似たような境遇にある等、私の訴訟に共感してくださる方がいましたら、背中を押していただけたらこんなに嬉しいことはない。
いただいたものが最大限活かされるよう、緊張感をもって臨みたいと思う。

言葉をかけても手を挙げてくれない生徒。
少し考えた後、私はある仕組みを考えた。
携帯でアプリを立ち上げて、白板に意見を書き込んでもらう。
すると黒板に貼ったスクリーンにそれがオンタイムで書き込まれていく。
それは全て匿名で表示され、友達の意見に自分の意見をプラスしたりすることもできる。
私はそこに随時表示されていく意見を一つ一つピックアップしながら、「よく考えられてる」とか「面白い視点だね」とか「これについてはどう?」なんて風にコメントを返していく。
するとだんだん生徒たちの顔色がよくなっていき、ますます色んな意見が書き込まれていく。
やがて書き込むのがじれったくなったのか、一人の生徒が叫ぶ。
「先生、僕はこう思う!」
手を挙げることすら忘れて。

必要なのは仕組みだったのだと気づく。
それは実社会も同様なのかもしれない。
多くの人が生活を人質に取られていて、手を挙げられずにいる。
CALL4には、そうした状況を打開していくための可能性があると感じた。
この社会は様々な問題を抱えている。
しかしこれを解決するための力は、誰もが持っている。

 

CALL4にある私のケースページはこちらになります

https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000078

育児と自由

学生時代に読んだ本の一節を時々思いだす。
そこにはこう書いてあった。
「英語には自由を意味する言葉が2つある
1つはfreedom、もう1つはliberty
前者には自分勝手、後者には自律のニュアンスがある」
どちらにも「自」の字が入るが、本質的な違いはなんだろう。

小学校の道徳の授業、ある日先生はこんな質問をした。
「生まれ変わったら異性になりたい人!」
男女ともに誰も手を挙げなかった、ただ1人私を除いて。
友人は聞いた。
「なんで女になんかなりたいんだ?」
私は答えた。
「好きな人と一緒に暮らすのが夢なんだ、そしたら子どもが欲しいと思ってね」
「それは女じゃなくても叶えられるじゃないか」
「でも出産はすごい痛いらしいじゃないか」
「それなら尚更男の方がいいだろう」
友人は当たり前のことのように答えた。
しかし私には発言の意味がわからず、そのまま黙ってしまった。
しばらく考えて、帰り道を歩いていた時、ようやっと理解した。
“どうせ子どもが得られるなら、痛い思いは相手にしてもらった方がいいってことか!”
いささか身勝手ではあるが、ある意味自然な考え方である。
しかしそれは私にとって、何か収まりの悪い考え方であるように思えた。
私は決して、他者の痛みをよしとせず、出来る事なら自分がそれを負いたい!と思うような利他的な人間ではない。
むしろどちらかと言えば利己的な人間である。
しかしだからこそ、出産の痛みは自分が負いたいと思った。
何故ならば、子を望んでいるのは他でもない自分だからである。
自分の希望を、他人の痛みで叶える、例え相手がそれを望んだとしても、リスクは公平ではない。
男性は子を望んだ時点で、自分ではない誰かに命をかけさせる生き物なのだ、という事実が、どうも収まりの悪さに関係しているようであった。
小学生当時、うまく言語化はできなかったが、私にはそれがひどく自分勝手な行為に思えた。
自分の夢は、自分の痛みでもって、叶えたかった。
しかし肝心の出産が女性にしかできない以上、どうにもこの自分勝手は回避できないように思えた。
男性は、命の誕生に対して、どうやっても自律的にはなりえないのかもしれない。
私は…生まれ変わったら異性に産まれたいと思った。

しかし大人になって改めて振り返ってみると、小学生当時の私の考え方は未熟であったと感じる。
私は自分勝手になるか否かを、出産という行為、あるいは能力の有無に見出していたが、これはあまりに極端な見方であった。
出産に限らず、およそあらゆる行為に伴う責任は、独立して存在しない。
自分で判断し選択したと思っても、その選択の背後には様々な要因が関係しているし、その選択の先にも様々な影響が発生する。
これはごく自然なことだ。
仮に私が女性で、自分の判断と痛みで出産したとしても、「この責任は私にのみある」とは言えないし、言うべきではない。
逆に私は男性だが、パートナーが子を産んだとして、私は責任を負わないわけではないし、言い方を変えるなら負えないわけでもない。
むしろ逃れようもなく負っているし、積極的に果たすべきだ。
痛みは公平ではないが、痛みと責任はイコールではない。
自分勝手になるか否かは、行為や能力に依存するのでなく、行為や能力に対する姿勢に依存する。
出産はできずとも、関わり方次第で、責任を果たすこと、即ち自律的であることは可能だ。
小学生当時私が感じていた、男性に対する無力感は、まったく的外れなものであった。

今、私は父になった。
「子供ができると自由が減る」という言葉を耳にすることがある。
その気持ちは痛いほどわかる。
確かに好きに使える時間やお金は少なくなったかもしれない。
ただ自由という概念に対して、より慎重に考えて表現するならば、私はむしろ以前より自由になったとすら感じる。
自分自身が負う責任が増え、それに対して果たせることが増えた。
もし私が、妻子を無視して、自らの快楽のためだけに時間や金、エネルギーを注ぐことがあれば、なんと滑稽で、まぬけで、何より不自由であることか。
自律的であることは難しい。
しかしやりがいに満ちている。

冒頭の問いに戻る。
自分勝手と自律の本質的な違い。
どちらも自分のルールに従って生きているが、前者のルールには「他者」が含まれていない。
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共通の土台に立つために

以前ブログにこんな記事を書いたことがある。

papa-atama.hatenablog.com

経緯は省くとして、ここで私は、パパママといった性別に囚われることなく、まずは育児者として共通の土台に立つことが大切ではないかと考えた。
しかし一方で、パパママといった性別の違いを前提にして関わることが重要になる局面もあるかもしれない。
矛盾していると思われるかもしれないが、少し整理したい。
「育児者として共通の土台にたつ」ために「性別の違いを前提に関わること」もまた必要ではないかと思うのだ。

上記の記事に照らして考えてみる。
育児関係の場においては、客観的事実としてその男女比に著しい差がある。
以前の記事ではそこは掘り下げず、まずは育児者同士の助け合いが大切だと訴えた。
性別は関係なく、単純に困っている人がいたら助けよう、それが子供にとっての利益にもなると。
しかし今回はあえてこの差に着目してみたいと思う。
私はこうした差はもっと縮まるべきだと考えているが、縮まること自体が解決なのだとは考えていない。
私は育児講習の場において、パパが少数である状況を前に、ママたちはきっと同性同士で話がしたいだろう、異性が加わることには抵抗感があるかもしれないと感じた。
しかし例えば仮に参加しているパパママの数が調度同じだったとして、同性同士のグループで話し合うのが良いのだろうか?
その方が摩擦は少なく済むのかもしれない。
しかしそれは決して望ましいことではないと思う。
精神的な、または社会的な男女のくくりは脇に置いておくとして、少なくとも我々には身体的な男女の違いがある。
これは容易には埋めがたいものであり、そこから視点や感覚に違いが生じることもまた自然なことだろう。
育児者として共通の土台に立つためには、男女の相互理解は欠かせない。
違いに由来する摩擦は避けるべきものでなく、むしろ向き合うべきものである。
男女間の比率に関係なく、異性同士が関わりを持つことが大切だと感じる。
例えば子宮を持つ者の苦しみや喜びは、それを持たない者にとっては想像だけでは補えない部分がある、言葉が必要だ。
そういう意味で、これを避けようとした私の態度は問題であり、育児者として未熟であったのだ。

しかしながら、多くの育児者が感じている通り、思想価値観立場の異なる者同士が交わり合うのは容易なことではない。
摩擦を乗り越えた先により納得のいく結論があるのだとわかっていても、なかなか向き合いきれないこともあるだろう。
非常にコストのかかる行為だからである。
逆に言うと、このコストを減らせれば、より良い育児ができるかもしれない。
距離を置いた方が良いケースもあるのだろうが、それでもやはり育児には、暖かく前向きになれるようなエネルギーが必要だ。
ネガティブな側面を指摘することがあったとしても、そこからポジティブなものが引き出せるように。
何も小難しいことではない、日常の中にある当たり前の喜びを切り出し、言語化し、読む人が再発見できるような…そんな漫画を描いていきたい。

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喧嘩をしている2人の上を、流れ星が走る
2人はそれを目の端にとらえ、夜空を見上げてその美しさに見惚れる。
2人が互いを理解しきることはついぞないのかもしれない。
しかし繋ぎとめるものは確かにある。

ここでいう流れ星のような漫画を描きたいのだ!

ににととと

早いもので、ととが産まれて1年がたつ。

兄弟でも、性格には随分違いのある2人。

少し比較をしてみたいと思う。

 

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ににがいつもまったりなのに対し、ととは表情がころころ変わる。

天真爛漫、元気いっぱいといった様子が心底可愛い。

ととが先に生まれていたら、ににの穏やかさは逆に心配になっていたかもしれない。

 

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にには優しい男だが、自分の世界があるので、案外いつでも構ってくれるわけじゃなかったりする。

その点ととは甘えん坊ですぐに寄ってくる。

 

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にには一時期は痛覚を疑ったくらい泣かない。

痛みもそうだが、嫌なことがあったりしてもほぼ泣かないので、何か我慢してないか時々心配になる。

逆にそんなににが泣く時はよっぽどである。

ににが誤ってととをどついてしまい、ととが転倒して泣いてしまった時は、それを悔いてとと以上に泣いていた。

 

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ととは天真爛漫なくせに警戒心が強い。

でもちょっと親切にしてもらうとあっさりなつく。

ちょろい。

 

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ととは何かとエネルギッシュ。

寝てる妻の首に手をかけて無理やり顔を傾けさせ、チューとしたりする。

あまりスマートには出来ないようで、妻の顔がよだれだらけになる。

 

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何はともあれおめでたい!

しかしここまでととが育ったのも

 

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他でもない君がいてくれたから!

 

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2人とも元気で大きくなってね!