パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

育児と自由

学生時代に読んだ本の一節を時々思いだす。
そこにはこう書いてあった。
「英語には自由を意味する言葉が2つある
1つはfreedom、もう1つはliberty
前者には自分勝手、後者には自律のニュアンスがある」
どちらにも「自」の字が入るが、本質的な違いはなんだろう。

小学校の道徳の授業、ある日先生はこんな質問をした。
「生まれ変わったら異性になりたい人!」
男女ともに誰も手を挙げなかった、ただ1人私を除いて。
友人は聞いた。
「なんで女になんかなりたいんだ?」
私は答えた。
「好きな人と一緒に暮らすのが夢なんだ、そしたら子どもが欲しいと思ってね」
「それは女じゃなくても叶えられるじゃないか」
「でも出産はすごい痛いらしいじゃないか」
「それなら尚更男の方がいいだろう」
友人は当たり前のことのように答えた。
しかし私には発言の意味がわからず、そのまま黙ってしまった。
しばらく考えて、帰り道を歩いていた時、ようやっと理解した。
“どうせ子どもが得られるなら、痛い思いは相手にしてもらった方がいいってことか!”
いささか身勝手ではあるが、ある意味自然な考え方である。
しかしそれは私にとって、何か収まりの悪い考え方であるように思えた。
私は決して、他者の痛みをよしとせず、出来る事なら自分がそれを負いたい!と思うような利他的な人間ではない。
むしろどちらかと言えば利己的な人間である。
しかしだからこそ、出産の痛みは自分が負いたいと思った。
何故ならば、子を望んでいるのは他でもない自分だからである。
自分の希望を、他人の痛みで叶える、例え相手がそれを望んだとしても、リスクは公平ではない。
男性は子を望んだ時点で、自分ではない誰かに命をかけさせる生き物なのだ、という事実が、どうも収まりの悪さに関係しているようであった。
小学生当時、うまく言語化はできなかったが、私にはそれがひどく自分勝手な行為に思えた。
自分の夢は、自分の痛みでもって、叶えたかった。
しかし肝心の出産が女性にしかできない以上、どうにもこの自分勝手は回避できないように思えた。
男性は、命の誕生に対して、どうやっても自律的にはなりえないのかもしれない。
私は…生まれ変わったら異性に産まれたいと思った。

しかし大人になって改めて振り返ってみると、小学生当時の私の考え方は未熟であったと感じる。
私は自分勝手になるか否かを、出産という行為、あるいは能力の有無に見出していたが、これはあまりに極端な見方であった。
出産に限らず、およそあらゆる行為に伴う責任は、独立して存在しない。
自分で判断し選択したと思っても、その選択の背後には様々な要因が関係しているし、その選択の先にも様々な影響が発生する。
これはごく自然なことだ。
仮に私が女性で、自分の判断と痛みで出産したとしても、「この責任は私にのみある」とは言えないし、言うべきではない。
逆に私は男性だが、パートナーが子を産んだとして、私は責任を負わないわけではないし、言い方を変えるなら負えないわけでもない。
むしろ逃れようもなく負っているし、積極的に果たすべきだ。
痛みは公平ではないが、痛みと責任はイコールではない。
自分勝手になるか否かは、行為や能力に依存するのでなく、行為や能力に対する姿勢に依存する。
出産はできずとも、関わり方次第で、責任を果たすこと、即ち自律的であることは可能だ。
小学生当時私が感じていた、男性に対する無力感は、まったく的外れなものであった。

今、私は父になった。
「子供ができると自由が減る」という言葉を耳にすることがある。
その気持ちは痛いほどわかる。
確かに好きに使える時間やお金は少なくなったかもしれない。
ただ自由という概念に対して、より慎重に考えて表現するならば、私はむしろ以前より自由になったとすら感じる。
自分自身が負う責任が増え、それに対して果たせることが増えた。
もし私が、妻子を無視して、自らの快楽のためだけに時間や金、エネルギーを注ぐことがあれば、なんと滑稽で、まぬけで、何より不自由であることか。
自律的であることは難しい。
しかしやりがいに満ちている。

冒頭の問いに戻る。
自分勝手と自律の本質的な違い。
どちらも自分のルールに従って生きているが、前者のルールには「他者」が含まれていない。
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