パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

『幸福の門』補足

とかく「つまんなそう・・・」と思われがちな倫理。
どうしたらもっと興味を持ってもらえるのか・・・倫理教師として一つの課題だったのだが、ふと思いついた。
「漫画にしちゃえばいいんでね?」
とはいえ、哲人の思想や人生を漫画化したようなものであれば、すでに書店に売られている。
あまり学習が前面にでてしまうと楽しみづらいだろう。
理想は、興味をひきつつも、思わず考え込んでしまい、誰かと意見を共有したくなるような漫画・・・
なかなか難しいが、チャレンジとしては面白そうである・・・!
というわけで早速描いてみた。

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ここで一度足を止め、自分だったらどう判断するか、それは何故なのか、少し時間をとって考えてみてもらいたい。
納得できたらば後半に進んでみてほしい。

 

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いかがだったろうか。
私としてはこういった漫画は初めての試みであり、賛否両論が予測されるためハラハラしながらの投稿であったが、教材として使用する上で何か感想や意見などあればと求めたところ、Twitterでは嬉しいことに、予想以上に多くの反応をいただくことができた。
その全てに返答することは難しいが、以下いくつかいただいたコメントをピックアップしながら、少し考えてみたいと思う。

「作者が結論を提示してしまうのは、自由な思考の妨げになる、ある種の説教のようになってしまい、無粋ではないか」
これは私自身恐れていた点であり、気をつけたつもりではあるものの、改善が必要なポイントだと感じている。
この漫画の表現については、問いかけだけでぶつぎりにしてしまう(3Pで終わりにする)パターンも考えた。
しかし最終的には、ストーリーとして漫画を完結させつつも、色々な角度で考えてみてほしいと思った時に、一つ意見を添えておいた方が面白いかなと考えるに至った。
その際、主人公にくぐる選択をさせるのか、あるいはくぐらない選択をさせるのかについては、読者の予想を裏切る方が、別角度での思考を促すことになるだろう。
私は、読者はくぐる選択をする人の方が多いのではないかと予測していたので、あえてくぐらないサイドを描くことで、読み終わった後も頭の中に思考が残ることを狙った。
しかしこれはあくまで一つの考えとして描いたものであって、これが私の主張であるとか、ましてやこれが正しいと説くものではない。
説教になってしまっていたり、くぐる選択をした人を否定するような内容になってしまっているとしたら、それは私の表現力の問題であって、今後の課題である。
今回についても、もう少し中立をとる、誘導しない描き方があったように思う。

「状況によって結論が変化するのではないか。得たいものが絶対手に入らない、極端に望みが薄い場合は、皆くぐると思う」
なるほど…と考えさせられた。
確かに今置かれている状況が困難であればあるほど(余命幾ばくも無いとか)、門をくぐる動機は強化されるように思う。
しかし状況の違いは動機の強さにこそ影響を与えど、結果には影響を与えないと、少なくともこの漫画の主人公は考えたのではないかと思う。
ちょっと話がややこしくなってきたので、ここで門をくぐることによる結果について、少し考えてみたい。
通常我々は、何かしらの欲求不満を抱えながら生活している。
もっと痩せたいとか、もっと裕福になりたいとか。
一見してそれは、それ自体が目的であるように感じられる。
しかしよくよく検討してみると、実は手段だった、というケースも少なくないのではないか。
例えば、「痩せる」ということの背景に、「モテたい」という真の目的が隠れていて、実は「痩せる」こと自体は手段であったとか。
「裕福になる」ということについても同様で、お金持ちになること自体が目的ではなく、本当はお金を使って達成したい何か別の目的があるのではないか。
福沢諭吉そのものが私たちを幸せにするのではなく、それはあくまで手段で、何に使うのかという部分に目的が隠れている。
幸福の門は、望みを叶えると持ち掛けてくるが、どのレベルまで叶えてくれるのかは明言していない。
読者の思考を制限しない方が良いかと思い、あえてハッキリとは書かなかったのだが、その結果恐らくこの点で解釈が分かれたように思う。
もし幸福の門が、「痩せる」とか「裕福になる」という、真の目的までは至らない手前のところまでを都合よく叶えてくれる存在なのであれば、これは比較的おいしい話かもしれません。
もしそうであれば、同じ目標を目指すにしても、試行錯誤や苦労をすることを是とするか否か、あるいは結果に至るまでに起きうるランダムな要素を楽しめるか否か、といったところが主にくぐるか否かを決める上で悩むポイントになってくるように思う。
読者の中にも、ここまでの存在と判断して、くぐる選択をした人も多かったのではないだろうか。
しかし、幸福の門は実はもっとすごい奴で、背景にある目的まであますことなく全て叶えてくれてしまう存在だった場合、捉えようによってはかなり危険な存在である。
何故ならば、門をくぐったら最後、常に全てが満たされた状態になり、今後一切の目的や希望を抱けなくなってしまう(抱いた瞬間叶ってしまうので)可能性があるためである。
「あれやってみたい」とか「ここ行ってみたい」とか、そういったものが全てなくなってしまった状態で、ただ時間だけが残るようなイメージ。
いただいた感想の中に「大切な人を思えば、彼らの幸せのためにもくぐりたい」というものがあったが、仮に門が全ての望みを叶える存在だった場合、周囲の人間も他人事ではない。
「僕のことを好きになってほしい」と思った瞬間に好きになるし、「お前なんていなくなっちゃえ!」と思った瞬間に消えるし、「俺の言うことを聞いてくれよ」と思った瞬間に何でも聞くようになる。
少し角度を変えてみよう。
人生の意味や価値、といったものはどこに宿ると考えるか。
それを自分の外側に見いだす場合、どこかに絶対的な意味や価値があって、それは外から手に入るものなんだと想定した場合、門はタダでそれをくれるありがたい存在かもしれない。
しかし仮にそれを自分の内側に見いだす場合、人生の意味はどこかに置いてあるものではなく、あくまで自分自身が見出すもの、自分が自分に対して与えるものなんだと考えた場合、門は全てを根本的に奪うヤバい存在になりえる。
いただいた感想の中に「不妊治療をしているが望みは薄い、門をくぐれば妊娠できると言われたらくぐるのではないか」というものがあった。
困難な状況が、門へ向かわせやすくするようには思う。
ただ上記した通り、門が妊娠までで叶えることをストップしてくれるかどうかはわからない。
もしかしたら、妊娠後に抱くであろう様々な希望や目的についても、くぐった瞬間に全て叶えてしまうかもしれない。
そうなってしまうと、生きる目的を失ってしまいかねない。
何しろ全ては満たされるのだから。
人生の意味や価値を、人生の過程に見出そうとする人にとってはいよいよ絶望的である。
何故子供を望むに至ったのか、その理由はこれまでの人生の過程から導き出されたものではないだろうか。
不妊治療がうまくいくどうかはわからない。
しかしその過程が、例えばうまくいって妊娠できたり、あるいはうまくいかず養子をもらったり、はたまた夫婦二人の生活という結果に達した時に、何かしらの意味や価値を与えてくれる。
苦労してできた子だからこそ大切にしたいとか、親子の絆は血縁とは無縁であるとか、夫婦の時間をとことん楽しもうとか。
誤解のないように強調したいが、これはつまり「過程を重んじれば幸せになれる」ということではない。
善悪とはまた別の話として、例えば悲劇的な結果に至る場合においても、過程の中から我々は価値や意味を見つけてくるのではないか。
仮にそういう立場を採用した場合、門は結果だけを保障し、過程を奪ってしまうわけだから、我々は永久に価値や意味を見つける手立てを失ってしまうことになる。
感想の中に、「あらゆるものが満たされ、生きる理由すらも失い、最後は緩やかな死を望んで、それもすぐに叶って消滅するとしてもくぐる!」というものがあった。
悩ましいところである。

「人生に向き合うことを善とする、あるいは努力すること、苦労することを善とする価値観が提示されているのではないか」
色んな読み方考え方ができるように、ところどころ抽象的に描いたつもりなので、自由に読み取ってもらえたら嬉しいが、作者としては、主人公は努力に価値を見出してくぐらなかったわけではないような気がしている。
では何故くぐらなかったのかと言うと、先の返答で書いたように、門が徹底的に全てを叶えてしまう存在だった場合、生きる理由すらも満たされ、結果と過程、現在と未来が断絶されてしまうかもと、予感したからではないか。
これは、現状に困難を抱えている人ほど辛い選択である。
苦労や苦痛なんてない方がいい、と思うのは自然なことで、できればなくしたい。
でもだからといって、全てを根こそぎ奪われてしまっては、元も子もない。
今すぐにでも楽になりたい。
でもくぐったら「楽になりたい」という気持ちすら即に満たされて、何もなくなってしまうかも。
苦しみは嫌だが、人生の中に苦しみが内包されてしまっていて、そこだけ切除しようとすると、それはもう少なくともこれまで経験してきた人生とはまったく別物になってしまうと考えた場合、どちらを選んでも相当苦しい。
表現的な観点から言うと、最後のコマで主人公に笑わせてしまったのは、良くなかったかもしれない。
作者としては、この笑みを「人生の苦しみを背負った前向きな笑顔」とするか、「人生の苦しみを回避できないものとして達観した自嘲的な笑顔」とするかは、読者に委ねるような表現を目指したのだが、うまくいったのかどうか。
表情が見えないくらいが、いい塩梅だったかも・・・

「教材として使う際のイメージを知りたい」
自由に使ってもらえたら嬉しいが、導入に使うのが一番適しているように感じている。
まず最初3ページを読んでもらい、生徒たちに自分の考えを作ってもらう。
その上で、友人たちと意見交換をする。
この過程は個人的には結構盛り上がるのではないかと思う。
Twitterでも、他の人の考えを読むのは面白く感じてもらえたのではないだろうか。
他者の考えを通じて、自分自身の考えを深めることを楽しんでもらったところで、哲人たちはどう考えたのか勉強してみよう、と持っていくのが理想かなと思う。
具体的には、例えば幸福に着目するのであればアランとかショーペンハウアー、先述したような過程と結果、因果関係に着目するならカントとかヒューム、生きがいや希望に注目するならフランクルなど。
授業開始直後から、いきなり哲人登場して講義されるよりは、敷居が低くなり、ある程度気持ちが入った状態で聞いてもらえるのではないかと期待している。
ただ、「じゃあお前はそんな複数人の思想を縦横無尽に飛び交いながら、かつ内容を平易に、限られた時間の中で目標地点に綺麗に着地させられるのか」と言われたら全く自信がない。
話は変わってしまうが、何をするにも私は圧倒的に勉強不足であり、学校からの帰り道はいつも自分の無知さ加減に吐きそうになっている。
しかしながら、方向性としては面白そうではないか…?
面白そうだと言ってほしい。

我ながら引く程の長文になってしまった…
ここまで読んでくださった方、本当にありがとう…
有意義な取り組みにできるか不安だが、今後も気が向いたら描いてみたいと思う…!
また宜しければご意見お聞かせください!