パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

誰が子供を育てるか

育児エッセイや漫画などでしばしば見られるシチュエーション。
育児を通じて夫婦が対立している。
妻は「もっと育児に関わってほしい」と訴え、夫は「仕事で疲れてるんだ」と訴える。
どちらの立場もよくわかるが、女性の社会進出が進む昨今においては、変化に対しアップデートできない男性側を批判する向きも少なくないだろう。
ただこの構図、少し立ち止まってよく観察してみたい。
こてこての二項対立。
しかし、そもそも育児は二項で語りえるものだろうか?

「誰が子供を育てるか」という問いに対し、「そりゃお父さんお母さんだろ」と考えるのであれば、先程の二項対立は避けられない。
当事者は2人しかいないのだから。
ただ実際に子供が育っていく上で関わっている人の数は、我々がパッと思いつくよりも遥かに多い。
保育士や学校の先生はもちろん、交通整理のおじさんや駄菓子屋のおばちゃん、あるいは会ったこともない人だって含まれるだろう、例えば学資保険のアイデアを出した誰かとか、アンパンマンポテトを製造してくれた誰かとか…あげだしたらキリはない。
問いに対し、我々は自由に答えることができるが、間接的なものを含めれば、ほとんどあらゆる人が子供を育てているというのが実態ではないか。
であれば、少なくとも先述した二項対立はあまりにもミクロな話だ。

以前友人に言われたことがある。
「子供を育てるのは両親だよ、当たり前だろ?だって当人の希望でやったんだから。少なくとも俺はあいつらが子供を持つことを希望したりしていない。故に俺には何の責任も発生しない。何かをしてあげる義理もない」
それはそれで筋が通っている。
しかし私は、「かく言う君だって両親によってのみ育てられたわけではないだろう」ということに加え、「それは持続可能なモデルではないのではないか」と感じてしまう。
極めて理不尽なことだが、人生には、自身がまったく関わることができなかった、その関わりを自覚することすら出来なかった他者の選択に対しても、責任を負わねば事態を好転させることができない、というシチュエーションが多く存在するように思う。
育児はその典型で、当事者の責任が最も大きいとはいえ、他者の助けなくして成立させることができない。
アメリカの古い諺に「子供を1人育てるには、村が丸ごと必要だ」とある。
鋭い表現である。

個人が割ける時間や労力には限りがある。
夫婦間の二項対立を克服するには、一歩ひいた視点で考えてみることも必要ではないか。
話のわかりやすさを優先して、あえてこれを1本のグラフ、2つの項目に分けて考えてみよう。
朝7時に出勤し、夜19時に帰宅する。
これを「社会のために使う時間」とする。
一方、それ以外を「自分のために使う時間」とする。
23時には寝ると考えると、「自分のために使う時間」はもう4時間しかない。
子供の就寝が21時だとしたら、子供と向き合える時間はほとんど残らない、暮らしを回すだけで手一杯。
そもそも「19時に帰宅できれば御の字だよ!」という人も多いのではないだろうか?
だとしたらいよいよである。

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こうした状況下で、もし社会の側が先程の友人のように、「育児は両親がするものである、我々には関係のない話だ」という態度でもってさらなる貢献を求めれば、「社会のために使う時間」は増え、一方で「自分のために使う時間」は減るだろう。
必然的に両親が育児をする余裕は奪われていく。
夫婦間の二項対立では、妻は夫に「育児者としての自覚を持て」と訴える。
しかしその自覚を持つべき対象は、あるいは夫だけではないかもしれない。
にも関わらず、子を持つことを選択した家族にばかり、自己責任の理屈で過剰に負担が集中するのであれば、不幸な話である。
時間や資金、場所、人など、育児に必要なものは多岐に渡るだろう。
社会全体で工面していくことが、明日の社会に繋がっていくように感じる。

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昨今、日本では少子化が進んでいる。
その原因は複合的で雑に語るのは危険だが、あえて大雑把に言うのであれば、今生きているこの状況が幸福でなければ、子を持ちたいと思う人は少ないだろう。
自分が生きているこの場所が、豊かで意義深く、生きるに値すると思えるものでなければ、どうしてそんなところに新しい命呼びたいなどと思うだろうか。
次世代への環境作りは、各方面で努力が為されていると思うが、恐らく十分ではないし、優先順位の高いものだと個人的には感じる。
この場所は、すなわち社会は、皆で作るものだ。
社会の助けなくして子供を生かすことはできない。
そして、さらに長い目で見れば…
子供の助けなくして、社会もまた生かすことはできないのだろう。