パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

『moon』で考える「愛」

にには夜になると寂しくなってしまうのか、時々起きて泣いてしまうことがある。

背中をさすり子守唄を歌っていると程なくして穏やかな寝息が聞こえてきた。

愛しさで胸がいっぱいになる。

この胸に中に、確かに「愛」があると感じる、だが…

「愛」とはいったい何だろう

ぼんやり考えてみた。

かつては隠れた名作と言われていたが、最近ではもはや名作過ぎて隠れきれていないゲームを引用したい。

タイトルは『moon』。

もともとはプレーステーションのソフトだ、今ではスイッチでもプレーできる。

一応ジャンルはRPGだが、そのキャッチコピーには皮肉が込められている。

「もう、勇者しない」

正直好き嫌いが分かれやすいゲームだ。

内容は非常にとがっている。

しかしそれ故に一部の人の心に深く刺さり、もはや一生抜けないレベルのインパクトを残してきた。

名作に対して無粋とも言える言葉ではあるが私からも一言すえておきたい、このゲーム…

めちゃくちゃ面白い

今回は『moon』を題材に、まさに本作のメインテーマでもある「愛」について考えてみたい。

ここから先はゲームのネタバレを含む。

特に本作の場合は、ネタバレがゲーム体験において致命的になりかねない。

ちょっとでも気になっている方はプレー後に読むことを推奨する。

 

『moon』のストーリーを比較的シンプルだ。

ある少年が部屋でゲームをしている。

すると突然画面が光り出し、少年はゲームの世界に招かれてしまう。

その世界には勇者がいるのだが、罪のないモンスターを殺し、人の家のものを勝手に奪い取っていく迷惑な存在として描かれる。

プレーヤーに出来るのは、そんなモンスターたちの救済と、この世界の奇妙な住人たちとの交流だ。

救済や交流をするほどに、プレーヤーには「ラブ」が集まり、レベルがあがっていく。

「ラブ」つまり「愛」が深まっていくのだ。

こんな風に書くと、単純で簡単そうに感じるかもしれない。

しかし実際にプレーしてみると、これがなかなかやっかいだ!

というのもこのゲーム、救済や交流に必要な条件に関する情報がほとんど提示されない。

それはプレーヤー自身が主体的に考え見つけ出していくものなのだ。

加えて本作には時間の概念があり、モンスターも住人も皆それぞれに行動している。

いつでもどこでもこちらが求めている対応をしてくれるとは限らない。

ゲームでは通常、NPCはプレーヤー本位に動いてくれる。

ストレスを減らし、快適にプレーしてもらうためだ。

だが『moon』にはそんな常識は通用しない。

彼らには彼らの生活があり都合があるのだ!

結果何が起きるかというと、プレーヤーは救済や交流のために、むしろモンスターや住人たちに歩み寄らねばならなくなる。

彼らのために会話を重ね、アイテムを用意し、適切なタイミングを探る必要が生じてくる。

『moon』はよく「待ちゲー」と称されるが、その所以がここにある。

モンスターや住人たちのために、プレーヤーは結構な時間を待たねばならない。

プレーヤーは痛感する。

「愛」って手間がかかる!

手間がかかるということはつまり、少なからずストレスがかかるということだ。

ただこのゲーム、実はクリアだけならほとんどのイベントを無視することもできる。

強制されていることはほとんどない。

どこまでやるかはあくまでプレーヤーに委ねられている。

更に言ってしまえば、そもそもがゲームなんて強制されてやるものではない。

嫌ならやらなくていいのだ!

にも関わらず『moon』にはついそれをやりたくなってしまう不思議な魅力がある。

プレーヤーは結局、自分の意志でゲームをプレーすることになる。

さながら遊園地のアトラクションのように快適な乗り物に乗って用意された娯楽を享受するのではなく、自らの意志と足でこの世界と関わることになる。

「愛」とは主体的なものなのである!

救済や交流はなかなかに大変だ。

しかしそんな風に手間をかける程に、「愛」は深まっていく。

語られるドラマはプレーヤーの予想を超え、モンスターや住人たちにもそれぞれの事情があり人生があるのだと感じさせる。

この世界は見た目ほどシンプルではなく、その後ろには過去と未来、歴史があるのだということが見えてくる。

プレーヤーは少しずつ…でも確かに、モンスター、住人、あるいはこの世界に対して、実在性を感じるようになっていく。

本当にこういう世界があって、彼らは本当にそこで暮らしているのだと、ある種不気味なほど鮮明に感じるようになっていく。

彼らは生きている!

大切にされなければならない!

「愛」とは他者に対する尊重だ!

『moon』を名作たらしめている理由の一つがまさにここにある。

ゲームだとはわかりつつも、一方で確かにそこに別世界があると感じさせる存在感。

ディスクを通じて、実在する異世界にアクセスしているのだという感覚に襲われる!

やがてプレーヤーは、この世界が抱える課題を本気で解決したいと願うようになる。

「ゲームとして」やりたいのではなく、「この世界に住む一人として」やりたいと思えてくる。

この世界を救う、つまりは全てのモンスターを救済し、勇者の横暴を止めたいと!

 

だが冒険の果てに待っているのは、残酷な結末。

勇者を止めることは叶わない。

ゲームの世界において、勇者は絶対だ。

最後のモンスターは倒されゲームは終わる、つまり…

この世界は終わる

「愛」をもってこの世界と関わってきたプレーヤーにとって、これは辛い。

ゲームが終わると、主人公はゲームの世界から解放され、テレビの前に戻される。

表示される「continue?」の文字。

迷うまでもない。

答えは当然「YES」だ!

今度こそこの世界を救ってみせる!

主人公は再びゲームの世界に舞い戻る。

それがすべて…

ゲーム制作者の狙い通りだとも知らずに

 

舞い戻った先でプレーヤーは万全を尽くす。

イベントを隅々まで回収し、モンスターを全て救済して、あらゆる住人の課題を解決する。

みるみるうちに貯まっていく「ラブ」。

レベルはついにマックスとなる。

もう誰にも負けるはずがない。

満を持してプレーヤーは勇者に挑む!

だが敗北する!

前回とまったく同じ。

世界は終わりを迎え、主人公はテレビの前に戻される。

プレーヤーは心底愕然とする。

いったい何が足りなかったのか。

何も思い当たるものがない。

全てを尽くしても尚足りぬというのか。

画面に浮かぶ「continue?」の文字。

もう私にできることは何もない…

「NO」を選び、「扉を開いて」部屋をでていく主人公。

プレーヤーの胸のうちは無力感でいっぱいだ。

しかし次の瞬間…

奇跡が起きる

終わったはずのゲームの世界に光が満ちあふれ、その住人たちはみな解放される。

突然のことに困惑するプレーヤー。

しかしこれまでのプレーを振り返り、様々な言葉たちを紡ぎ合わせていく中で理解する。

そういうことだったのか…!

プレーヤーはモンスターの救済や住人たちの交流を通じ、この世界にはびこる課題の解決に努めてきた。

それはすなわち悲しみを癒やすことであり、苦しみをなくすことであり、彼らを不自由から解放することであった。

プレーヤーは解放に全力を尽くしてきた、彼らを自由にするために!

しかしどんなに手を尽くそうとも、ゲームであるからには変わらぬ不文律がある。

勇者がいて、ラスボスは倒されるということ。

それは決して揺るがない。

ゲームの世界においては、全てがプログラムによって運命づけられている。

悪者に見えた勇者も同様、自らの意志でその運命を変えることはできない。

見方によっては勇者すらも運命の奴隷なのだ。

ゲームの中にいる以上それは変えられない、ならばどうすればいい?

ゲームをやめてしまえばいいのだ

プレーヤーが自ら手をくだすことを諦め部屋をでた時、彼らは初めてゲームから解放された。

エンディングとともに写真が映し出されていく。

そこにあるのは、ゲームの世界から解き放たれ、現実の世界で自由に遊ぶモンスターや住人達の姿。

 

本作ではあまり丁寧な説明はなされない。

故に展開に置いていかれたように感じたプレーヤーもいただろう。

だがむしろ、あえて言葉を尽くさず解釈の余地を残したことが、この作品の芸術性を高めているように思う。

自由を獲得した『moon』のキャラたちを眺めながら思う。

愛とは解放である

手間をかけ、自ら主体的に関わり、尊重してきた相手がいる。

いまや「愛」はかつてない程に深まった。

でもだからこそ最後は、解放してあげなければならない。

心底大切に思っている、信頼している相手だからこそ、最後は手を離し彼の人生を見送らねばならない。

それは切なく苦しいものだ。

目頭が熱くなる。

ずっと一緒にいたかったとすら思うかもしれない。

しかし「愛」は独占の傍にはない、それは自由の傍らにある。

『moon』は最後の最後に、そっとそのことを教えてくれるのだ。

 

私の胸に頭を埋めて眠るにに。

今はまだいい。

手間をかけ、主体的に、尊重することができる。

でもいつかは私もまた…

扉を開く日が来るのだろう。