パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

ににの考え事

ある日のこと、ににが道端のたんぽぽを眺めていた。
「にに、たんぽぽが好きなんだ」
彼は昔から花が好きで、中でもたんぽぽはお気に入りだ。
「でも昔はもっと好きだった」
気になる発言だったので質問してみた。
「昔に比べて、今はそんなに好きじゃなくなっちゃったのかい?」
「ん〜ん、そうじゃないよ」
「ん?昔はもっと好きだったっていうのは?」
「………」
しばらくの沈黙の後、彼は考え考え伝えてくれた。
「花の名前を教えてもらう前はもっと好きだったのに、名前がわかっちゃったから、今はたんぽぽにしか見えなくなっちゃった」
瞬間思った。
これはすごく大事なことを言ってくれているのかもしれない…!
言葉が足らず、いまいち真意が掴みづらいが、きっと何か大切なことに気づいたのだ。
私は問答を繰り返し、彼の考えを一緒に言葉として整理してみることにした。
彼の主張は凡そ以下のようなものであった。

自分は花の名称を知るより以前からたんぽぽの花が好きだった。
その頃は、その花の存在を自由に感じ取ることができた。
しかし私から「たんぽぽ」という名称を知らされてからというもの、この言葉に拘束されてしまって、以前のように自由にこの花を感じ取ることができなくなってしまった。
彼の言う「好き」というのは単純な好き嫌いではなく、どれだけ自由にそれを感じ取れるのか、を意味しているようであった。

これはなかなか面白い指摘だと思う。
得てして我々は、言葉と対象を同じものだと捉えがちだ。
今回のケースについても、たんぽぽは昔からたんぽぽだったのであって、単に言葉を知らなかっただけだと、別に言葉を知っているかどうかに関係なく、たんぽぽはたんぽぽじゃないかと思いそうになる。
だがこれには注意が必要だ。
何故なら言葉としてのたんぽぽと、花としてのたんぽぽそのものは、別存在だからである。
例えば「花」という言葉に対して、我々はどんなイメージを抱くだろうか。
美しい、鮮やか、儚い…人によっても違うだろうが、ある程度こんなイメージで共有できると思う。
ところがすでにこの時点で、我々は少なからず言葉に引っ張られてしまっている。
実際には、お世辞にも美しくない花はあるし、鮮やかじゃない花や、儚くない花だってある。
しかしそういったものはすぐには連想しづらい、というのも言葉のイメージが先行するからだ。
この影響からはなかなか逃れがたい。
我々は日々言葉でやり取りをしているため、言葉を聞いた瞬間、条件反射的に何かをイメージしてしまうからだ。
「日本人」
と聞いた瞬間に先入観が入ってくる。
実際の国籍や、肌の色、母国語、両親が何人か、といったことは実はあまり関係ない。
そのイメージは、言葉に強く拘束される。

ににが言ったのは、恐らくこのことだ。
自分は花としてのたんぽぽそのものが好きだったのだけど、言葉としてのたんぽぽを知ってしまってから、その言葉に振り回されて、たんぽぽそのものが上手に見れなくなってしまったと憂いているのだ。
ににはまだ言葉が未熟である。
自由や拘束といった単語はよく知らないだろう。
しかし無意識的にそれを感じ取ったのだと思う。

しかし彼は何故それを感じ取ったのか、考えてみた。
私の推測だが、それは彼が5歳児で、様々な言葉を修得し使いこなしていく時期、その真っ只中にいるからではないかと思う。
先生や友人とお話したり、本を読んだりして、知らない言葉と出会う機会も増えている。
それに応じて彼の世界も広がりつつあるわけだが、その一方で身動きが取りづらくなっていくような、そんな感覚を覚えたのではないか。
言葉の扱いを学ぶことは、裏を返せば言葉に拘束されていく、一種の自由を失っていくことでもあるのかもしれない。

恐らくだが、彼は間もなくこの自らの気づきを忘れてしまう気がする。
言葉と対象は同存在であり、そんなことは分けて考えるまでもないと感じるくらい言葉の扱いに熟練していく、ある種言葉に支配されていくだろうと予想されるからだ。
でもいつか、振り返る日が来るのかもしれない…

にに、君の毎日は気づきに溢れている。
君は成長途中で、しかもその速度は著しい。
でもその成長によって、失うものがあるとしたら。
知ることで、むしろ見えなくなるものがあるとしたら。
かつてのように、たんぽぽを愛することはできなくなるのか?

たんぽぽを眺める君の顔を見ながら思う。
にによ、君は今
世界を警戒しているんだね…!