パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

ハーネスで考える

育児用アイテムの一つに、ハーネスというものがある。
迷子紐とも呼ばれる、体にくくりつけるものやリュックサックになっているものなど形状は様々だが、いずれも背中から紐が伸びており、親がそれを握ることで子供の動きを制限することができる。
昔から賛否両論ある道具で、「子供を犬のように扱うものである」として否定的に評価する人も少なくない。
しかし得てしてこういった賛否両論ある題材には、複数の要素が内包されている。
少し整理しながら考えてみたい。

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急に話題を大きく変えてしまうが、昨今のパンデミックに対する各国の対処法を参考にしてみよう。
予め申しあげるが、ここでは政治的なことを話すつもりはなく、あくまで思想的なことを話したいと思う。
了解の上で読んでもらえるとありがたい。
欧米ではロックダウンに代表されるように、場合によっては罰則も伴うような強い私権制限が実施された。
一方の日本では、「お願いベース」という言葉にもある通り、外出規制にしても休業にしても、基本は要請されたものであり、欧米のような強制力を伴うものではなかった。
日本の中には、欧米のような手法を評価する方も一定数いるだろう。
ただ当の欧米には、むしろ強い私権制限に対して警鐘を鳴らしている学者がいる。
いわく此度の政治判断の背景には、権力者がより強い権力行使をしたいという本音が隠れているのだと。
大義名分のもとに、権力の拡大を図らんとする邪な精神が潜んでいるのだと。
欧米では、連日に渡って行政のトップや幹部陣が、現状や今後の見通し、判断に至った根拠などをメディアを通して説明しているような国もあった。
そうした行政の姿勢を見て、いちがいに「でも本当は黒いことを考えてるんでしょ?」と批判する気持ちには私はなれないが、実際のところはどうなのだろう。
立場の差こそあれ、ここで衝突を起こしているのは、「国民の自由(何をやっても良いということでなく、自由を行使する主体である命や、そのための環境や秩序を含む)を守りたい」という論理と、「国民を支配したい」という論理であろう。
いわずもがな尊重されるべきは前者である。
ロックダウンにせよ休業要請にせよ、前者に基づくものであれば、やや大味な表現をするならば、自由を保障するための不自由であれば、容認される余地がある。
逆に、どんなに穏和で静かな方法であろうと、後者に基づくものであれば、国民の思考放棄を助長したり、諦めや自発的隷従を促すようなものであれば、それは看過し難いと思う。
我々の自由が最大限に発揮されるような選択が、我々には求められている。
欧米の学者による指摘は、為政者にとっては手厳しいものかもしれない。
しかしもし為政者が名君であるならば、むしろそうした自立的な意見がでてくることを内心では喜ぶであろう。

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前ふりが長くなってしまったが、コロナへの対応と、ハーネスには似ているところがある。
いずれも一見して不自由を前提とするものであるが、一方では命を守るものでもある。
重要なのは、その本質が、自由を助くものなのか、支配を助くものなのか、そのどちらなのかという点にあるように思う。
ハーネスに対し、「子供を犬のように扱うものである」と指摘する人間には、これがまさに支配を助くものに見えているのだろう。
子供を親の言いなりにする、都合よく管理しようとするものであると。
一方ハーネスの必要性を説く人からしたらば、これはむしろ自由を助くものである。
それがなければ自由もへったくれもなくなってしまうところを、むしろ保障してくれているのだと。
ハーネスに対する賛否両論の多くは、先に説明したような食い違いのもとに行われ、噛み合っていない。
しかしいずれの論者にも通底していることがある。
それは、「子供を大切にしたい」という気持ちだ。
コロナ禍に限らずあらゆる局面において、政治は国民を大切にしなければならないのと同じように、育児において子供は常に大切にされなければならない。
大切にする、とはつまり長期的な目線に立って自由を守るということであり、これは支配とは真逆の場所にあるものだ。

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毎日朝食を作っている。
ある日のこと、ピーナッツバターをぬったトーストをににの前に置いたところ、本人はシリアルが食べたかったらしく、退けられてしまった。
一瞬、ただでさえ忙しい朝にわがままを言われても困る…と感じたが、すぐに思い直した。
これは実に頼もしいことだ。
少し前までは、何を出されても食べるしかなかったところを、自分の食べたいものが把握できるようになったのだから。
以来、私は朝食を作る前に今日は何を食べたいか本人に聞くようになった。
毎回聞く余裕があるわけじゃないし、何でも用意できるわけではない、しかし彼にそれを考える力が備わった以上、できる限りは応えたいと思う。
このところは、スーパーで買い物をしている時でも、実際の食事をイメージして欲しいものを提案できるようになってきている。
やがては、一日の予定やとるべき栄養など、更に広い視点を踏まえて意見が持てるようになるだろう、自分で作ってみたいなんて思うようになるかもしれない。
現在私は、起きる時間から食べるもの、行く先やお風呂のタイミングまで、息子たちの一日の殆どを管理している。
しかしそれは支配するためではない。
私の考えや価値観に従わせるための訓練ならば今すぐやめるべきだ。
私は息子たちの自由がより発揮されるように寄り添わねばならない。
息子たちは見えないハーネスをつけている。
しかしこのハーネスは「つける」ためにあるのだろうか?
いいや「外す」ためにあるのだ。

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