パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

男と女に分けられて

子供の頃、私は髪が長かった。
肩から少し背中にかかるくらいまで伸ばしていた。
幼稚園から小学校低学年まで、私は海外のインターナショナルスクールで過ごしたが、国籍や人種がバラバラすぎて些細な違いは話題にあがらなかった可能性はあるものの、特に何か髪について言及された覚えはない。
ただ日本に帰ってきてからは、帰国子女という珍しさもあってか、比較的よく髪について話題にされた。
男子からは「女子みたいだ」と言われ、女子からは「男子なのに」と言われた。
私はどうも、特異な存在らしかった。

男か女かと、男として扱うか女として扱うかは、似ているようで違うようであった。
男子に告白されたことがある。
それはすぐに破棄されたのだが、いわく私を女子だと誤解してのことだったらしい。
少なくとも、私そのものが好きだったわけではないようだ。
痴漢の被害にあったことがある。
加害者は恐らく男性だったと思うのだが、その時私は、自分が女子として扱われているような感覚を覚え、良し悪しとは別に、自分の中に男女を分けて考える発想が芽生えつつあるのを自覚した。

中学生になる時、私は校則を確認した。
そこには「男子の長髪は禁止」とあった。
私は念の為、このルールの意図を確認したが、先生は手短に答えた。
「男子が長髪なんて変だろ」
先生の戸惑うような表情を見て、私はそれ以上問うをやめた。
指示に従いハサミで髪をきった時、私は自分の中で何かが欠けたような感じがした。
うまく言えないが、この時の感覚が、私の将来の職業を決めた。

やがて私は教員になった。
教員には色んなスタイルがあると思うが、私はどちらかというと内面をだすのに抵抗のない方で、自らの未熟な点や弱い点についてもことさらに隠すことなく生徒とも接している。
しかしこうした態度は、マッチョな男性教員からすると軟弱な姿勢に見えるようだ。
ある日のこと、こんな言葉をもらった。
「弱さを見せてはいけない。
女性教員なら共感を得られるだろうが、男性教員がそんなことをしても、生徒を不安にさせるだけだ。」
男性教員の役割とは、強くブレない態度でもって生徒を導くことであるらしかった。
「君の弱点は父性の欠如だ。
それは生徒を弱くする。」
とたしなめられたこともある。
私自身の課題は解決されるべきであり、そのためには努力が求められる。
しかしそれが性別に付随してくるという点は、うまく解釈できていない。

結婚して子供ができてからは、家庭で過ごす時間が増え、職場にいる時間は減った。
子供の就寝時間から逆算し、お風呂や食事の時間を考えれば、定時にあがれても予定はギリギリである。
同じような状況で慌ただしく職場を後にする小さい子のいる女性教員に対し、周囲が声をかける。
「お母さんお疲れ様!頑張れ!」
一方、同じように帰路につこうとする私に対しては声かけも少し変わる。
「こんな時間に帰っても、ご飯ができるまで暇でしょ?仕事片付けてったら?」
この発言をした人物に、悪気はない。
彼らは心底善意から、私の仕事を思いやり気遣ってくれている。
私が、帰りが遅いと機嫌が悪くなる妻に配慮し、少しでも問題を緩和しようと努力しているものと考えている。
だがその一方で、何の悪気もなく、先にあげた女性を貶めてしまう。
つまり、同じ子育て世代であっても女性は夕飯を作りに帰らねばならない、ありったけの善意を込めて「頑張れ!」と。

ボーヴォワールの有名な言葉がある。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
彼女は、女性らしさとは社会が作り出した型に過ぎず、女性は男性に対して不利な立場にあるとして、その開放を訴えた。
非常に考えさせられるところである。
ただ私は、型をはめられ不自由を強いられてきたのは何も女性だけではないように思う。
ボーヴォワールは、女性とは男性に対する「第二の性」だと主張したが、実はそんな男性すらも、あるがままの性に従っているのではなく、一種の役割を演じているのではないか。
こういった議論は、昨今ではあまり珍しくなくなったように思う。
男女という性に社会的な役割を当てはめることで、何かが円滑に機能するということが期待されてきたのかもしれないが、むしろそれに違和感を持つ人々が最近では増えてきているのかもしれない。
女性が、自らを女としての役割から開放していくのと同じように、男性もまた、自らを男としての役割から開放していく流れが、少しずつ生じてきているように思う。
上手に表現できないが、性別とは1か0かの二元論的な世界ではなく、境界線の曖昧なグラデーションの世界にあるように感じる。
そう捉えた方が、世界を優しくできる気がする。