パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

教員の社会

「お前そんなんじゃ社会でやってけないぞ!」
ある日の職員室で聞こえてきた声。
その言葉が発せられた経緯はわからないが、しばらく考え込んでしまった。
社会…対象とする範囲の広い言葉である。

育児漫画を描くようになって4年。
私の本業は教員だが、このところは漫画を通じて他業種の方に出会う機会が増えた。
お話をしていると、それぞれにプロ意識を持っていて、価値を創造するべく試行錯誤されていることが非常によく伝わってくる。
誰もが熱意を持っていて、話を聞いているだけでも、なんだかワクワクソワソワさせられる。
出会う人の職業、性格、立場、性別は実に多様だが、それぞれが活き活きと能力を発揮している。
ある日の会話で印象に残った言葉があった。
「私は変人で、およそ社会から歓迎されるタイプの人間ではない。この仕事に出会ってなければ野垂れ死んでいたかもしれない」
個人的には、そんなネガティブなことになるとは思えない素敵な方であったが、ともかくそれが本人の自己評価であった。
ここで重要だと感じたのは、社会から歓迎されないと本人は思いながらも、まさにその社会の中に、この方の能力が発揮される場所があったということだ。
他業種の方と交流していて常々思うのは、社会という場所の奥深さ、その圧倒的な広さである。
当たり前のことではあるが、そこには多様な人たちが存在していて、様々な生き方がある。
彼らは実にバリエーションに富んだ能力を持っており、これが十分に発揮されるためには本人の努力もいるが、社会の側にもこれを受け止めるだけの柔軟性が求められる。
選択肢を、いかに広く確保するかが肝心だ。
また、多くの方が肌で感じていることだと思うが、社会は広大であるだけでなく、昨今はその変化の速度も早い。
ついていくだけでも負担はかかる。
そうした状況の中、自分のわかる範囲、できる範囲にとどまり、社会とのアクセスを減らすことで負担の軽減をはかる向きもあるだろうし、それも時には大切なことかもしれない。
ただこの社会が、広大ながらも人の営みによって形成されるものである以上は、多種多様な営みに触れることなくして全体として目指すべき方向性を見出すことは困難であろう。
全てを把握することは誰にもできないが、社会とのアクセスを広く保ち、様々な価値観や視点に対する柔軟さ寛容さを身につけることを習慣とすることが、社会の形成者には大切な要素であると思う。
その方が、恐らくだが他人に優しい結果に向かうことができるだろう。
異業種の方との交流は、多くの気付きに満ちている。

学校という場は、物理的にも精神的にも閉鎖的だ。
これは教員生徒関係なく該当するように思う。
学業だけでなく、人によってはプライベートに至るまで、それこそ生活全体が学校を軸に完結しかねない。
ポジティブなこともたくさんある、しかし自己完結してしまう傾向が強いのは弱点でもある。
高校生のインタビュー記事で、こんな文章を読んだことがある。
「僕は学校が好きです。
僕が持っている能力を見つけて伸ばしてくれるから。
でも不十分だとも感じます。
僕らが持っている能力の全てを、学校が見つけることはできません。
学生のうちに、学校外の人間と交流することも大切です。
今は学校の占める領域が大きすぎて、使える時間も労力も余っていない。
選択肢もあまり与えられておらず、個人の努力にまかせるにはハードルが高いと感じます。
僕は大学で学び、生徒が学校内で学びつつも、学校外で知見を広めたり活躍したりすることができるような、内外を繋ぐアクセスポイントを作りたいと考えています。
そうしたら、もっと皆の能力が活かされるように思うんです」
次世代にも、いやむしろ次世代だからこそ、こうした問題意識を持つのかもしれない。
教員は、ともすると安易に社会を語ってしまうが、これには注意が必要だ。
毎朝遅刻してしまう生徒に対し、「社会にお前の居場所はない」と語る教員を見たことがあるが、その生徒は現在、フレックスタイム制の会社で活き活きと働いている。
内外のアクセスポイントは、むしろ教員にこそ必要かもしれない。

私は現在、兼業を巡り訴訟を抱えている。
自分贔屓にならぬよう気をつけないといけないが、私は兼業も一つのアクセスポイントになると考えている。
ただ理解を得るのは容易ではない。
正式な申請まで漕ぎ着けたものは訴訟中の件しかなく、環境問題解決のための啓発運動や、子ども食堂の活動支援、男性育休取得者としての経験の記事化など、公民科教員としての観点からお伺いした他の全ての案件については、個人・企業・NPOなど、依頼主の形態に関わらずそもそも申請書自体をいただくことができなかった。
ボランティアであってもダメだと言われてしまったこともあった。
期待して声をかけてくださった先方に、お断りの文面を打つのは苦しいし、機会損失を思うと辛くなる時もある。
ただ、行政の側の負担はわかる。
恐らくほとんど経験のない事例なのだろう。
慎重に扱うことも大切だ。
しかし、これからの時代において教員の活動の幅は広くしていく方が充実した教育活動に繋がるように思うし、私と同じように制限を受けて身動きがとれなくなる人は、今後増えていくような気がしてならない。
訴訟というと争いのイメージもあるが、闘いたいわけではない。
私のゴールと、相手のゴールは、本質的に一緒なはずだからである。
より良い形を、皆で模索していきたい。

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「学校の勉強は実社会で役に立たない」と言われてしまうことがある。
教員としては、反論を試みたくなるところであるが、むしろ大切なのは反論より傾聴かもしれない。
そう言われてしまうことの一因は、学校内の社会と学校外の社会とのギャップにあるだろう。
それぞれに大切な領域があるから、同化せよと言いたいわけではない。
しかし、相互理解は必要ではないか。
教員採用試験の受験者が減少している。
しかし一方で、教育学部への進学希望者はコロナ禍において増加傾向だとも聞く。
希望を持って教員の勉強を始めた学生が数年後、同じように希望を持って教員の道を歩み始められるように、今できることを考えたい。