定期検診や育児講習会に行く度に、感じることがある。
パパが少ない。
講習の途中で、グループワークの指示が入ると、少しだけ戸惑う。
相手に気を遣わせてしまわないか、心配になるからである。
テーマにもよるかもしれないが、ママにとっては同性同士の方が話しやすいことも多いだろう。
男性である私をグループにいれる事には、少なからず抵抗感があるかもしれない。
それでも親切なママたちに助けられ、これまで大きく不自由することなく育児をさせてもらってきた。
それは何も講習会でのグループワークに限らず、例えば公園でのお遊び会にしても、声をかけてもらい輪に入れてもらうことで、父子ともに本当に助けてもらってきた。
ある時私は、こうした経験を漫画にしたいと思い、ネームを描いた。
大まかな流れとしては以下の通りである。
①育児関係の集会はママが多くパパは少ない
②自分が男性であるために相手を困らせてしまわないか心配だったが、親切なママのおかげで助けられてきた
③育児に努めるも孤立を感じているパパは少なくないように思う、ママには気にかけてもらえたら嬉しい
このネーム、描いている時には特に何も感じなかったのだが、時間を置いて改めて読んでみた時、ふと思った。
「これは気持ち悪いな…」
気持ち悪さの原因は何だろう、しばらく考えてみて気づいた。
「親という存在を、育児する者として一元的に捉える段階を経ずして、パパとママに分けてしまっている」
読者はこの漫画を通じて、何を受け取るだろうか。
もしかしたら「パパはもっと育児参加しないとダメだよ!」と言われた気持ちになるかもしれない。
あるいは「ママはもっとパパを助けてあげないと一緒に育児できないよ!」と言われた気持ちになるかもしれない。
そこにはいずれも共通点がある。
ママパパの区別をまず前提にしてしまっている。
親としての話でなく、性別の話が強調されてしまっているのだ。
しかしこれではパパとママの距離を開いてしまうことになりかねない。
それは果たして、私が伝えたいメッセージとして妥当だろうか?
十分に考えた後、私はネームを描き直すことにした。
私は、子供にとっても親にとっても、幸せな育児を実現していきたいと願っている。
そのために私が伝えたいのは「パパがどう」とか「ママがどう」ということではない。
真に伝えたいのは、男性も女性も関係なく、もっと言えば老いも若いも関係なく、更には親であるかどうかすら関係なく、「皆で子供を育てていこう」ということである。
漫画として表現すべきは、「パパがママに助けてもらったこと」でなく、単純に「助けてもらったこと」自体、その点をこそ強調しなければならない。
グループワークで私が戸惑っているのは私の未熟のせいであって、それをパパやママといった属性のせいにするのは妥当ではない。
描き直しを経て、以下の漫画が完成した。
それが適切かどうかはともかく、この漫画を描いていて気づいたことがある。
育児漫画を描く際にはおよそ使用は避けられないと思われる言葉も、場合によっては使わずとも表現できるということ。
個人を指すための言葉として使用する場合を除き、「パパ」も「ママ」も、この漫画では一度も使われていない。