パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

「愛する」を考える

以前こんな漫画を描いたことがある

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「愛する」とは何か。
それは私にとって未だに最も重要な問いの一つであり続けている。
学生時代、私はこの問いに対して、明確な答えを求めていた。
状況や関係性または条件によって変化することのない、普遍的な答えである。
「愛する」とは「〇〇することである」と、いつでも変わらず答えることができるようなものが大切だと考えていたのだ。
歴史を振り返ってみると、多くの知識人がこの問いに対して、まさに普遍的とも言える解答を示している。
そこから学ぶことは実に多い。
ただ一方で、私はそれらを学びながらどうにも腑に落ちきらない気持ちを抱えてきた。
経験を経て、このところ私は学生時代とはまた違った感覚を持つようになってきている。
「愛する」という行為は、常時通用する一つの型に収まるような概念ではないのかもしれない。

あらゆるものは変化する。
時代も社会も、そこで暮らしている個人も、常に変化し続けている。
友人との交流を考えてみよう。
私たちは通常、友人が様々な経験を通じて変化していくことを理解しながらも、一方で決して変わることのない中核が内部に存在していると思いがちだ。
それが友人の本体なのだと。
同様に、自分にも変わることのない中核があり、言うなれば「本当の自分」とでも言うようなものがあって、これを受け入れて生きるべきだと思っている。
就活や婚活の際、まずセミナーに参加して自己分析をし自己理解を深める、それに基づいて選択すれば正解をひける、そんな風に考える人は少なくないのではないか。
しかし実はこうした考え方は、いたずらに自分や他人を拘束しているだけなのかもしれない。
本当はもっと自由に変化しうる可能性に満ちた存在を、あえて「私はこういう人間なんです」と決めつけることで縛ってしまっているのではないか。
思い返してみると学生時代、私はむしろこんな風に拘束することを、無意識のうちに肯定していたようにも思う。
社会や人間は、ともすると皆てんでバラバラな行動や考えを持ちかねず、結果として大変な混乱をもたらしてしまう。
これを回避するためには何かしらの概念でもって互いを拘束する必要がある。
それはもしかしたら「勤勉に働くべきだ」という思想かもしれないし、「結婚して子供を持つべきだ」という価値観かもしれない。
私は「愛する」という行為にもこの意識を当てはめ、何か普遍的な答えを持つことで、いつでも変わることのない安定した状態、秩序だった状態を求めていたのかもしれない。
しかし原点に戻るが、あらゆるものは変化する。
それは自然なことであり、抗うべきものではないとしたら。
変化は制御すべきものではなく、適応すべきものだとしたら。
「愛する」という行為もまた、変化すべきものであるように思えてくる。

具体例に落とし込んでお話させてほしい。
以下の漫画を例に考えてみよう。

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この漫画の中で、私は疲れきった妻に対して当初、飲み物や時間を用意しようとする。
手前勝手な言い方をすれば、それが私にとっての「愛する」だったのである。
「相手の考えを引き出し尊重すること」が、「愛する」の具体的な内容だったのだ。
しかし結果として、この行為は失敗に終わった。
その原因は状況の変化にある。
これまでは考えを尊重することでうまくいっていたのかもしれない。
しかし状況は変化し、今は考えさせること自体が妻の苦痛となったのである。
ではどうしたらいいのか。
状況の変化に合わせ、「愛する」の具体的な方法を変化させる必要がある。
私の場合は、「考えずにすむようにすること」を、新しい「愛する」の方法として選択するに至った。
どんな方法を選択するかは関係性や価値観によって様々考えられると思うが、刻一刻と変化する状況に即応する形で「愛する」も変化させていくことが自然ではないか。
そう考えると、「愛する」に普遍的な解答を求めていた学生時代の私の考えは、未熟であるばかりか危険ですらあるように思えてくる。
仮に「愛する」をまったく変化させなかったとしたらどうなるだろう?
漫画のような状況に対面した時、恐らく私はこう思ったであろう。
「こんなに愛しているのに、君はなんて我儘なんだ!」と。
私は普遍的な「愛する」を持つことで、ばらばらになりがちな個人は繋ぎ止められ、その関係性、秩序は回復されると信じていたが、皮肉なことに結果は逆になる。
最近うまくいかない彼女に対して「あんなに愛しあっていたのに、最近の君ときたらいったいどうしてしまったんだ!?」と詰め寄ったとしよう。
二人はうまくいきそうか?
どうも難しい気がする。
変化を受け入れることなく、「愛する」という行為を断定的に捉えてしまうことは、結果として愛の幅を狭める。
愛しあう二人であっても、むしろ愛しあう二人だからこそ、状況は目まぐるしく変化する。
付き合っている、結婚している、子供がいる、それぞれの状況がまったく違うことは火を見るより明らかだ。
「愛しているという言葉を別の表現に置き換えてみてください」
今なら教授の問いに、少しは答えられる気がする。
明確な答えなどない、何故ならそれは変化のうちにあるから。
さらに厳密に言えば、ここでいう変化は必ずしも「AがBになる」といったものではない。
新しい方法を選択したとしても、かつての方法が失われてしまうわけではないからだ。
「愛する」の選択肢が増える、そういう意味では「AにBが加わる」といった方が適切であり、変化よりもっとふさわしい言葉があるかもしれない。
前向きで、可能性を感じる言葉。
愛する それは 進化する。