昨今、教員の労働環境が厳しいものであることは、広く知られるところとなった。
教員採用試験の倍率は低下傾向にあり、特に公立小学校については2年連続で過去最低を更新したという。
定年による大量退職やコロナ禍の影響もあって人材不足は顕著であり、産休や育休取得に伴う代替の教員を探すのにも四苦八苦する現状がある。
そんな中で、私が兼ねてより注視してきた数値がある。
それは精神疾患で休職する教員の数である。
文科省の調査を確認する限り、精神疾患による休職者はここ10年間、約5000人で推移している。
90年代には約2000弱であったことを考えると、20年のうちに倍増したことになる。
休職といってもその理由は様々だが、精神疾患以外での休職はどの校種においても減っており、逆に精神疾患での休職はどの校種でも増えている。
年齢層による内訳を見てみると、増加率は20代が最も多く、次いで30代が多い。
若手教員が特に苦しんでいるという現状が見てとれる。
では何故、そうした現状が生じてくるのだろうか。
一般的には長時間労働や残業代の欠如、若い教員であれば経験の不足や指導体制の不備などが指摘されるが、ここではあえて精神的な部分に着目して考えを述べてみたいと思う。
教員の労働環境悪化に伴い、教職の道を選ぶ学生は少なくなってきている。
実際、私の周囲を見ても、「教師を目指す!」といって高校を卒業していった生徒の半数以上が大学で進路を変えている。
かつては毎年複数人来ていた教育実習生が今年は一人も来ない、などといったことも珍しくなくなってきた。
それでも尚教職を志す学生には、教育に対する強い拘り、志、情熱があると思われる。
悪条件は承知の上で、それを鑑みて尚教育者になりたいという熱い気持ちが、志望を支えているのである。
そもそも何故そんなに教員の労働環境は悪いのか、原因は複合的だが、うちの1つには行政の現場に対する無理解がある。
例えば行政は、時間外労働増加の主たる原因の一つは、教員の自主的な行動にあると主張している。
ある裁判で扱われた資料から引用するに、行政の側が想定する授業1コマあたりに当てられる教材研究の労働時間はわずか5分であり、それ以上は自主的な行動と判断するとあった。
会社員に例えて言うなれば、約1時間のプレゼンを5分で用意せよ、といったところであろうか。
これは一例に過ぎないが、行政の考える労働の枠の中で、現在の教育活動を全うすることは現実的ではない。
すると教員は、最終的に2択を迫られることになる。
①自らの生活を考えて、ある程度わりきった教育活動を行う。
②自らの生活を犠牲にしてでも、最良の教育活動を追求する。
①の道を選択した場合、クオリティはある程度妥協せざるを得なくなるだろう。
一方、②の道を選択した場合は、うまくいけば生徒ならびに保護者からの信頼の厚いスーパーティーチャーになれるかもしれない。
こんな風に述べると誤解を与えてしまうかもしれないが、私は特に①の道を悪いと思っているわけではない。
むしろ労働に対して時間や賃金の有限性を意識することは、長期的な労働条件を考えていくために大切なことだと思う。
逆に②の道が必ずしも理想だとも思わない。
スーパーティーチャーは、生徒からすればスーパーかもしれないが、その分何かしらの代償を払っている。
本人がそれを良しとしていたとしても、子供達に働き方の手本を示す上では、生活の中で労働にどの程度の比重を置くべきか、バランス感覚を持つことも重要であるように感じる。
かつて職場で、こんな言葉を聞いたことがある。
「どいつもこいつもサラリーマン教員だらけだな!先生としてのプライドはないのか!」
これは定時であがろうとする教員に対し、若くて力のある、まさにスーパーティーチャーが発した言葉である。
気持ちが昂ってでたものと思われるが、時間内にあがろうとする教員にも、介護や育児などそれぞれの事情があるのだ。
共感性を欠けば、身内同士で傷つけあうことになりかねない。
ただ付言するならば、こうしたスーパーティーチャーのところには、たくさん仕事がやってくる。
行政はスーパーティーチャーを手本にしたがるし頼る。
特に過酷な学校においては、生活を優先した先生の分だけ、スーパーティーチャーのところに負担がやってくる、少なくとも本人がそう感じる、ということはあるかもしれない。
①と②のどちらが良くてどちらが悪いということは、議論してもあまり本質的ではないように思う。
分断を深めてしまう環境にこそ問題がある。
話を本筋に戻そう、若手教員についての話である。
教員は、2択を迫られる。
ある程度経験のある教員であれば、器用にこなすかもしれない。
ただ若手教員にとっては、これはとりわけ苦渋の決断となる。
というのも、教育に対して人一番強い気持ちを持っているからである。
そもそものところを思い出してもらいたいのだが、悪条件を前にして柔軟に割りきれるような、ある種一歩ひいた、俯瞰的な考え方を重んじる人物は、教員を選んでいない可能性が高い。
すでに述べたように、これだけ悪条件に関する情報が広く伝わっている状況で尚教員になろうという人物は、教育に対する強い気持ちを支えに選択してきているのである。
だからこそ、この2択は厳しいものになる。
①を選択すれば、自らが一番大切にしてきた動機、心の支えにヒビが入るように感じられるからである。
行政は1コマの授業を5分で用意しろというが、本当にそれをやったら大惨事なのだ。
生徒の大切な時間を、最大限活かしたいと思うのは自然な気持ちだ。
私は教員1年目の時、1コマの授業を作るのに10時間近くかかった。
私の能力が特別低い可能性は否めないが、ある程度の水準を提供したいと思えば5分は無謀である。
しかし、結果として9時間55分は自主的な活動になってしまうのだ。
多くの若手教員が、②の道を進んでいくことになる。
ただこの道は厳しい。
若手教員には経験がないからである。
もちろん、大学時代の積み重ねや持ち前のスキルで切り抜けていく猛者もいるが、皆が皆出来ることではない。
するとまずこの時点で、何かしらの不調をきたす若手教員がでてくることになる。
更に、何とかここを切り抜けて日々の業務をまわせるようになったとしても、その先には葛藤が待っている。
それは、延々と続く選択の日々である。
一度②の道を選んだとしても、状況は変化していく。
例えば結婚したり、子供が生まれたりするかもしれない。
となれば当然私生活にかける比重は重たくなっていくだろう。
しかしその時間を捻出するためには、自らの業務効率化だけではなかなか収まらない。
どこかで仕事をわりきっていかねばならなくなるケースの方が多いだろう。
つまり、一度は退けた①の道を再検討しなければいけなくなるのだ。
若手教員にとってそれは相当なストレスになる。
昨今の学校では以下のような風景をしばしば見かける。
問題行動や不登校など、何かしらの課題があって学校に不適応を起こしていた生徒が、様々な経緯を経て最終的に転校していく。
その時に教員がぽろっとこぼす。
「これで一つ負担が減るよ」
この言葉の真意を図ることは難しいが、あえて大雑把に見るのであれば、激務を抱える教員にとって、ともすると生徒の転校は、抱えていた仕事からの解放と感じてしまいかねない局面があるのだろう。
もう責任を負わなくていいのだと、あとは転校先でうまいことやってくれと、そういう気持ちが湧いてきてしまうのかもしれない。
ただもちろん生徒はそうした扱いを望まないだろう。
労働うんぬんとはまったく関係なく、個人としてできる限り誠実に向き合ってほしいと願うのではないだろうか。
しかし教員の側にそれを可能にする時間的精神的余裕は必ずしも保障されていない。
最悪の場合、先が見えてしまっていると感じた生徒に対して、早く転校してくれないかと内心では思いながら、生徒と向き合うことになるかもしれない。
転校自体が悪いことなわけではない。
教育の難しいところだが、状況や生徒によっては早めの転校が良いこともあるし、逆の場合もある。
ここで重要なのはどういう指導を行ったかではなく、その背後にある精神性である。
若手教員は、繰り返しこういった局面に遭遇し、悩むことになる。
①のようにはなりたくない自分と、一方で②のようにはなれない自分。
若手教員にとっては教育への思いは譲りがたいものだ。
それを譲ってしまったら、何故教員をしているのかわからなくなってしまいかねない。
その思いがあったからこそ、他の職を退け、わざわざ教職を選んだのである。
それはもはやアイデンティティなのだ。
重くのしかかる葛藤と無力感。
それに耐えられなくなった者から、病んでいくのである。
ある若手教員の言葉が印象に残っている。
「まるで教育を人質に取られているようだ。生徒のためならいくらでも頑張れるだろうと」
途中にも書いた通り、①か②かという選択の良し悪しは本質的ではなく、そもそも2択を迫られるような状況が健全ではないのだと感じる。
環境を改選するための具体的な対策については様々なところで議論されているため割愛するが、優先度の低い業務は削減するべきであろうし、加配も重要な選択肢である。
本来であれば、教育に対する熱い思いはかけがえのないものであり、教員の資質として極めて重要なものだ。
しかし現状の教育現場では、ともするとそれが命とりになるという皮肉な状況が生み出されてしまっている。
悲劇的な状況は改善されるべきだ、情熱の炎を頼りに教育が回る、その炎が燃え尽きてしまう前に。