パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

親 根拠なき権力

政治の授業をする時、まず初めに「権力」の話をするようにしている。
権力とはどんな力のことを指すのか、生徒たちに考えてもらいながら、まとめの部分で指示をだす。
私が「起立」と言うと全員が立ちあがり、「着席」と言うと全員が座る。
何をされているのか要領を得ないという表情の生徒に語りかける。
たった今私が使ったものこそが権力であると。
権力とはつまり「言うことをきかせる力」のことを意味するのだ。

権力には、通常従わせるだけの根拠が必要になる。
最悪なのは暴力(言うことを聞かないと殴る)、他にも宗教(不信者は救われない)などがある。
そんな根拠の中でも、最も望ましい形の一つは信託されることだと思う。
実績や人柄が評価され、任せるに足る人物だと信頼されて、託されるということ。
例えば会社の中で権力を得るには、相応の結果を示して信託される必要があるだろう。
ところが、世の中にはそうした根拠を半ばすっ飛ばして権力者になってしまう仕事がある。
その一つが教員である。
もちろん、免許獲得や試験合格には努力が不可欠であるから、すっ飛ばすというのは些か不当な表現だとは思うが、とはいえ生徒からすれば、新任もベテランも同じ教員であり、従うべき対象として捉えられる。
信頼のあるなしによって指示の通りの良し悪しに差はあれども、教員はそれこそ初日からでも、生徒を従わせてしまうことができる。
これは、従わせされる生徒にとってはもちろん、その主体である教員にとっても注意が必要なことである。
というのも容易に勘違いを生むからである。
自分は人を従わせるに足る偉い奴なんだ、すごい奴なんだ、という思い込みを生じさせ、自分のだす指示の正当性を客観的に分析する姿勢を欠いていくようになる。
教員は、学校という閉鎖空間の中で王様になってしまうことのないように、権力の行使に対して人並み以上に自覚的でなければならない。

ただここ数年、気付いたことがある。
この世には教員以上に、根拠なくして権力者になってしまう存在がある。
それは親である。
親になるのに、必ずしも実績や努力は必要ない。
本当はそういったプロセスがあった方がいいのだろうが、それらをすっ飛ばしても親自体にはなれてしまう。
一方の子供は、あらゆる面で弱い立場にある。
信託されることが権力の根拠として望ましいと述べたが、親についてはこれを望むべくもない。
子に親を選んでもらうことなど、スピリチュアルな話をするならともかく、不可能なのだから。
「親ガチャ」という言葉は、その理不尽さを端的に表している。
親は、常に権力がもたらす勘違いとの戦いを強いられる。
親は積んできた経験の分だけ、子よりも妥当な判断ができると期待したいところだが、常に正しく判断できるわけではないし、同様に常に子供が未熟で誤った判断をするわけでもない。
自分の都合を優先し、安易に権力を行使して半ば強引に解決を図るようなことがないか、常に点検が必要である。
もしもその点検を怠ることがあれば、愛情はたちまち暴力に早変わりしかねない。
自らに問いかけることを習慣としたい。
子が未熟ゆえ権力を使わねばならぬのか…いや、実は私が未熟ゆえ権力を使わねばならぬのではないか、と。
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