パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

児童館での話

児童館にて、ある日こんなことがあった。
息子と同じく遊びに来ていた他所の子が、机の上に立って跳ねたりオモチャを投げたり、やんちゃしている。
その様子を見た息子は真似をして、とうとう机に登り始めてしまった。
すぐさま私は注意した。
以降、息子が真似することはなかったが、どこか納得できていない表情であった。

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悪影響を受けるくらいなら児童館に行くのも考えものである!
と言いたいわけではない。
望ましくない行為に影響を受けるのは困った話だが、それは児童館に限らず、どこででも生じうることだ。
長期的に見れば、それもまた大切な経験だとも思う。
さらに言ってしまえば、息子だって悪い行いをすることはあるわけで、それのせいで影響を受ける子もいるだろう。
大雑把な言い方ではあるが、お互い様なのである。
ただそれは、お互い様だから何をしてもいい、ということではない。
できることなら、心身に負担の少ない範囲で、悪影響を遠ざけるのでなく、これと向き合って、互いの成長に繋げていきたい。
どうしたら一緒に気持ちよく過ごすことができるのか、声をかけあって考えていきたい。
誰かを幸せにしたいなら息子の成長は欠かせないし、同じように息子を幸せにしたいなら誰かの成長は欠かせない。
児童館は、そうした機会に満ちている。

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ただ、実は個人的に難しいと感じていることがある。
それは子供との接し方ではなく、大人との接し方だ。
悪さをしている子供がいたら、声をかけて注意する。
でももしそこに親がいて、状況を放置しているとしたら、本当は親に声をかけるべきだと思う。
怒ったりしたいわけではない。
「私はこう考えるんだけど」と相手に伝えて、一緒に環境を作っていくパートナーになりたいのだ…!
ところがこれが…なかなか出来ない。
親が側にいると、子供に対してすら言葉がけをしづらくなってしまう。
自分にとって心地の良い集団や環境を選択することは大切だ、でもそれだけに終止するのは互いのためにならないと思う。
息子には環境を選んだり、受け入れたりする力もつけてほしいが、環境を作っていく力をこそ身につけてほしい。
自分好みの場所をつくるということでなく、自他ともに過ごしやすい場所をつくるということ。
線を引くのでなく、線を払っていくということ。
それを実践できるようになってほしい…と考えいるにも関わらず、他でもない私自身ができていない!

相変わらず机の上で跳ねまわっている子供と、それを横目で見ながら携帯を操作している親。
その全体を見つめながら、机にこそ上がらないものの、釈然としない表情を浮かべる息子。
そしてその更に外側に、まごつている私がいた。

1歳8ヶ月から9ヶ月の頃

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お風呂、お着替え、ご飯、トイレ…何から何まで手が掛かり、とにかく大変だった1歳半前後。
しかし息子の成長は早いもので、ある日突然できるようになってしまう。
すると不思議なもので、あんなに大変だったもろもろが、急に恋しくなってくる。
「大丈夫?パパがやってあげるよ?」
なんて言っても、もうすっかり余計なお世話になっていたり。
息子はどんどん次のステップへと進んでいってしまう。
成長はもちろん嬉しいが、時々寂しくなってしまう。
私がいなくちゃ生きていけなかったのは君の方だったはずなのに、してやられたよ。
気付いたら逆になっているんだから。

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妻の母は、比較的古い考え方の持ち主で、女性たるもの嫁いだら最後、古巣に戻るなんてとんでもない、覚悟を持って家を出るべし!という傾向の強い人だった。
その一方で妻は家族愛が強く、郷土に対する思いも深い人だ。
私は兼ねてより、両者の食い違いを心配していた。
しかし、それも今は昔である。
息子が生まれてからというもの、妻の両親はすっかり丸くなり、今では息子を連れて帰るのにも歓迎ムードである。
人が持つ価値観は、そう簡単に変わるものではないと思う。
増してや年配の人であれば尚更である。
それすら上回るというのだから、子供の持っている力は侮れない。

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息子に甘えられるのは嬉しい。
ただいつも思うことがある。
何故かタイミングが悪い。
こちらが忙しい時に限って甘えてくる。
洗濯中も困るが、1番きついのが料理中。
足に絡んできたり、手をひっぱったり、モノ渡してきたり…
可愛いんだけど、火がついてるし包丁持ってるしで構ってあげられない!
何とか説得し、落ち着いた頃に「じゃあ遊ぼっか!」と声をかけてみると、もうどうでもよくなっててつれない反応が返ってくる…
何でやねん!

妻の話

ある日、公園で滑り台に並んでいた時のこと。
いよいよ順番が来るというところで、急に男の子が列をわって乱入してきた。
私は男の子を注意し、後ろに並ぶよう促した。
彼は不満そうにしつつもこれに従い、すぐ後ろに並んだ。
私と息子は一緒に階段をあがり、息子が前、私が後ろから覆うような形で滑った。
体の軽い息子、ゆーっくりと進んで、まもなくすべり終わろうとした時だった。
先程注意した男の子が、すごい速度ですべってきて私の背中を思いきり蹴りあげたのだ!
そこまでの悪童とは予想していなかった私はビックリしてしまい、息子の身を案じているうちに男の子は走り去っていった。
まんまと逃げ仰せられる、かと思ったが…

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そこにいたのは妻だった。
少し距離が離れていたので、状況はよく見えなかったが、妻は男の子に声をかけ、やったことを認めさせ、謝罪の言葉を引き出したらしい。
こたえるものがあったのだろう、男の子は肩を落としてトボトボと歩き去っていった。
世界で1番妻に怒られた経験をもつ私だからこそ分かることだが、こういう時の妻は意外に冷静で、その言葉は短いものの、胸の奥に煮えたぎる何かを感じさせる重い声色で語りかけてくる。
一瞬にして気温が2度くらい下がったかのような緊張感。
あれは…怖い!
私は少しだけ男の子に同情した。

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しばらくして妻は言った。
「失敗した」
私は意図がわからず、何か良くない部分があったのかと妻に問いかけた。
「私は、あの男の子が謝罪の言葉を述べた時『よし』と返してしまったが、『えらい』と返すべきだった」
望ましくない行為に対して言葉をかけるだけでなく、望ましい行為に対しても言葉をかける、それを怠ったことについて、妻は自責の念を感じているようだった。
武士みたい人だな、と思った。

1歳7ヶ月から8ヶ月の頃

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マンガにも描いた通り、私はすぐに祈ってしまう。
以前からそうであったが、子供が生まれてからというもの、その傾向はさらに深まった気がする。
というのも、自分にはどうしようもないところに、とても大きなものが掛かっているように思えてならないからである。
妻子のおかげで、私は今とても穏やかに暮らせているが、息子が無事に生まれてきてくれたことや、そもそも妻との出会いは、努力によって為されたことばかりではない。
言うなれば偶然に大きく左右されるのであって、その結果としての良き未来を望むのであれば、どうしても手を合わせたくなってしまう。
子供に関する悲惨なニュースを見かける度に、その気持ちは強まる。
どうか…どうか健やかな人生を送ってほしい…!
懇願するような気持ちだ。
しかしそれでも尚、妻の言うことは正しい。
祈るほどに強い気持ちがあるならば、何か行動を起こすべきだ。
例えそれが結果に繋がることはなかったとしても、行動した分だけの結果は得られるだろう。
悲惨なニュースを見て祈っている暇があったら、例えば交通事故を減らすために必要な、具体的な手立ての1つでも考えてみたらどうだ?
それもやらずに祈る。
白状しなよ…
お前は誰のために祈ってるんだ?

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初めてこれを強く感じたのは、当時まだ結婚していなかった彼女へのクリスマスプレゼントを考えていた時。
何店舗もハシゴして、半日近くをかけて、たった1つの指輪を選んだ。
プレゼントする日までの間、綺麗に包装してもらった箱は私の机の上に置かれていたのだが、それを眺めては温かい気持ちになったことを覚えている。

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成長し、表現の幅が広がってくると、子供ながら色々考えている様子が見て取れるようになり、それがたまらなく愛しい。
文章にしてしまうと、そうは言っても落ち着いているように受け取られるかもしれないが、その愛しさたるや、時々発作のように溢れ出し、若干呼吸がしづらくなる程である。
(え?ちょっと待って、本当に可愛いじゃん!)
と思わず体をぎゅーっと抱きしめたりするのだが、やればやるほど感情が高ぶり、あんまりひどい時には軽く頭痛を起こす始末。
その間ずっと息子は迷惑そうにしているのだが、最近では本当に不快な時があるようで
「パパー!」
と叫びながら私を押しのけ、くっついてた部分を手で払うまでになった。
でもそれすら可愛いのである(末期)。

幸せの宿る場所

学生の頃。
ソローという作家のこんな言葉に出会った。

「幸福になるには、それを求めないことだ」

正直思った。
「そんな無茶な」
それでは取り組みようがないではないか。
こちとら学校で毎日のように「将来何やりたいのか」とか「第一志望はどこか」とか、とにかく目標を設定するよう指導を受けているというのに、てんで真逆の話。
「求めよ、さらば与えられん」
聖書にだってそう書いてある。
偉人はこれだから困る。

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誰にでも夢の1つや2つあるだろう。
私にとってそれは妻との結婚だった。
無事に婚姻届をだし結婚式をあげた時、私はあまりの達成感から友人にこう言った。
「スタッフロールがでてきそうだよ」
友人は言った。
「馬鹿を言うな。
それでは物語が終わってしまうではないか。
むしろここからが始まりだというのに」
ハッとした。
彼の言う通りだ。
結婚という「結果」に固着してしまうと、これからあるいはこれまでの「過程」が見落とされてしまう。
しかし幸福が宿っているのは果たしてどちらだろうか。

深夜、息子がぐずる。
どうも喉が乾いてしまったらしい。
お茶を与え、体を倒して布団をかけ、背中をさすってあげていると、やがてスースーと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてきた。
穏やかな寝顔を眺めていると、胸いっぱいに愛しさが溢れてくる。
幸せな瞬間。
この幸せは、息子が存在しているという「結果」に依拠しているのだろうか?
もちろんそれもある。
だがより大きいのは、息子と共に過ごしてきた時間や、息子にかけてきた気持ち、割いてきた労力…そうした「過程」の方にあるように感じられる。
大切な息子という「結果」の中にではなく、息子を大切だと思えるにいたった「過程」の中にこそ、暖かい何かが宿っている。

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学校を出て就職し家族をつくって養っていく、一般的な幸福観は崩れつつある。
時代の変化とともに価値が再検討されていくのは大切なことだと思う。
しかしそれでも尚、結婚や出産に幸福を見る考えは強い。
ただその際には注意が必要だと感じる。
結婚という仕組みや、出産という行為、あるいは妻や夫、子供という存在そのものが、イコール幸せとは限らないということ。
それは結局「結果」に過ぎない。
だが幸せの主成分は実のところ「過程」に宿っているのではないか。
結婚した人、子供がいる人の全てが幸せを感じているわけではない、考えてみれば当たり前の事だ。
少子化対策が叫ばれる時、得てして目標は「結果」に据えられる。
現代人は数字が大好きだからだ。
でももしその時、「過程」を尊重する視点をなくしたら、きっとそこに期待した程の幸せは宿らないだろう。

「幸福になるには、それを求めないことだ」
…なるほど。
言葉に出会ってから約15年、ようやくわかってきた。
ソローと言えば、もう1つ有名な言葉がある。

「幸福はまるで蝶のようだ。
追えば追うほど逃げていく。
しかし別のことに気を取られていると、そっと肩に止まっている」

なるほどなるほど!

1歳6ヶ月から7ヶ月の頃

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育児に理不尽はつきもの、とはいえ重なってくると心にくるものがある…!
せめて言葉を話してくれたら…とも思うけど、単純に「喋れる」という事と「意思を伝えることができる」という事はまた別次元の話であって、そう考えると国語は大事だと思う。
きっとしばらくこの苦労は続くのだろう…!

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このマンガを描いてから約半年。
未だに消防車は息子のお気に入りであるが、新たに加わったものもあり、宝物は増えるばかりである。
幸せなことだけれども、一方でだんだんと部屋を圧迫するようにもなってきていて悩ましいところ。
いつかはきっと断捨離しないといけない日がくるのだろうけれど、手にとる度に思い出が蘇りそうで、スムーズにはできそうにない。
きっとその頃には、当の本人からしたらばただのガラクタになっているのだろうけど、私にとってはいつまでも宝物なのだと思う。

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仕事が終わって帰る時、家で誰かが待っていてくれるということのありがたみ。
ましてやそれが最愛の人ともなれば、その効果は尋常じゃない。
今でこそ多少落ち着きが身についてきたが、同棲を始めたばかりの頃は、文字通り走って帰っていた。
私は夜眠る前に、妻と何気ない会話をするのが大好きなのだが、好きすぎて下手すると2時間くらい会話してしまうくらいなのだが、それが毎日できてしまうってんだからもぅ…ありがたくって頭痛がしてくる(睡眠不足)
最近ではそこに息子まで加わってしまって、手に負えないとはこのことである。
右を向けば息子、左を向けば妻。
おいおいおい、一生寝れないぞこれ!(寝ろ)

温かい嘘

公園のはらっぱに咲くタンポポ
息子がそれを踏んづけてしまいそうになった時、私は思わず言った。
「踏んじゃったらお花だってイタイよ。可哀想だから避けて通ろうね」
次の瞬間に気付く。
私は今、嘘をついた。
花に神経系はない。
まして感情を抱くはずもない。
踏んでも痛くないし、自分のことを可哀想だとも感じないだろう。
私の言葉に科学的な根拠はない。
でも息子は頷き、道を変えて歩いていった。

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科学の発達に伴って、人々は合理的な思考を好むようになったように感じる。
他人に何かを説明する時には求められる、科学的な根拠。
客観的で一般的な結論を得る上では望ましい傾向なのかもしれない。
しかしその一方で、ある種スピリチュアルな考え方は、少しずつ居場所を失ってきたように感じる。
こうした変化に対しては、どこか魅力が損なわれるような、色があせるような、優しさが薄れるような、そんな感覚を覚えることがある。
「お天道様が見てくれている」
いや見ていない。
太陽は恒星の一つで、水素とヘリウムの塊に過ぎない。
「お人形さんが寂しいって」
いや寂しくない。
人形はただの物体だ。
「そんなことしたらバチが当たるよ」
いや当たらない。
因果関係のないところに…いやもうやめよう。
こんな指摘はまったくのナンセンスだから。

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「踏んじゃったらお花だってイタイよ。可哀想だから避けて通ろうね」
私の言葉に科学的な根拠はない。
でも息子は頷き、道を変えて歩いていった。
当初通るはずだった道よりも、少しだけ優しい道になったように、私には感じられた。