パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

君の中にある力

「お風呂掃除をしてくれたら、お小遣いをあげる」

「勉強を頑張ったら、ゲームを買ってあげる」

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これらはいずれも、親子ともに得るものがある、理にかなったルールに見える…
かもしれないが、どう思うだろうか?

私は注意が必要だと思う。
これには理由がある。

私は息子の「内なる力」を育てたいと思っている。
それは例えば、お風呂掃除をやってくれる公共心であったり、勉強を楽しむ向学心であったり。
報酬など「外からの力」をかければ行為は為されるかもしれない。
でもより重要なのは、公共心など「内なる力」によってその行為が選択されることではないだろうか。

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「外からの力」は一切かけるべきではない!と主張したいわけではない。
それもまた重要だろう。
しかしそれが重要なのは、「結果として行為が為されるから」ではなく、「行為を通じて気づきを与えられるから」だと思う。
お風呂掃除や勉強を促すことで、その背景にある公共心や向学心の大切さに気づいてもらえるかもしれない、その意味で重要なのではないか。
結果とはまた別のところに大切なことがある。
「怒られたくないからやる」のと「良いことだと思うからやる」のとでは、結果は同じでも、意味が違うはずだ。

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「外からの力」を扱うときは、気をつけたほうがいい。
「外からの力」は、ともすると「内なる力」を奪ってしまうかもしれない。

考えてみてほしい。
興味関心といった「内なる力」によって、様々なことに挑戦し、何かを知ることに純粋な喜びを感じている子供がいたとする。
そんな彼に対して、繰り返しテストを行い、とにかく点を取るよう「外からの力」をかけ続けたらどうなるだろう?

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彼はきっと点に繋がることのみを選択して学ぶようになるのではないだろうか。
大人は、そんな彼を見て
「なんて向学心に欠ける子なのだろう、学びを点数稼ぎの道具としか見ないなんて…」
とガッカリするかもしれない。
しかしこの原因はなんだろう?
私には、「外からの力」によって彼が本来持っていた「内なる力」が奪われてしまったように見えてならない。
テストで意欲を刺激したかったはずが、逆の結果を招いてしまう。
それ自体が「目的」として「内なる力」によって為されていた学びが、「外からの力」によっていつの間にか「手段」になり下げられてしまったのではないかと。

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「外からの力」は、「内なる力」を養う上で重要な意味を持つ。
しかしこれを奪うようなことがあれば、本末転倒だと思うのだ。

以前こんな4コマを描いた

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彼は今、「内なる力」から色んなことを手伝ってくれている。
一方私は、「外からの力」でもって彼を導こうとするだろう。
しかし導かんとしている当の私は、実は彼がどこに向かいたいのかを知らない。
それは彼自身が見つけることなのだ。

注意したい。
私の力が、彼の力を、奪うことのないように。