パパ頭の日々のつぶやき

妻子との何気ない日常を漫画にしてます!

いただいた質問への回答

6月24日に、府中市さまよりご依頼をいただき、男性の育休取得や育児経験について、講演をさせていただきました。

その際の様子は以下のサイトから動画を視聴することができます。

よろしければご覧ください。

www.city.fuchu.tokyo.jp

 

今回は講演会に際していただいた質問のうち、講演内でお話しできなかったことを中心に回答してみたいと思います。

根の深い問いかけも多く、上手に答えきれていないものもあるかもしれませんがご容赦ください。

結構な長文になってしまいましたので、目次を作ってみました。

気になる項目を選んでいただくと読みやすいと思います。

 

【 パパの育児参加を促すために、どのように働きがけたら良いと思いますか? 】

本当は男女隔てなく協力して育児に当たるというのが理想であり、一方がもう一方に対してその対応に気を遣うというのは、そもそもが苦しい状況だと思いますが、考えてみます!

 

個人的にはパパの得意なことや好きなことから優先的に育児や家事を任せていき、少しずつ分業体制を整えていくのがベターかなと思います。

例えば、料理が得意だというなら献立を任せてみる、掃除が好きなら子の就寝後に部屋の片付けをしたり掃除機をかけるのを習慣にしてもらう、肌が強いなら子のお風呂や洗い物などの担当になってもらう等。

もしも得意なことも好きなことも何もないという場合は、比較的容易なものやルーチン化しやすいものを任せてみるのも一案かもしれません。

例えば、洗濯や翌日の保育園の準備など、業務内容を覚えるまでは少し混乱もあるかもしれませんが、一度覚えてしまえばある程度同じようにこなせるのではないかと思います。

 

最初のうちはこなすだけで精一杯かもしれませんが、少しずつ役割を通じて子供の様子も見るように促してあげると尚良いように思います。

例えば、ただ食事を作るだけでなく、子供がどんなものが好きでどんな風に調理すれば嫌いな食材でも食べてくれるのかを考えてもらうとか。

ただ洗濯をするのではなく、服のサイズや種類をチェックしてもらって、これからの季節どんな服が必要になるのか、衣替えはどのタイミングでするべきか考えてもらう等。

もしもパートナーから子供目線の提案、例えばあの子はちくわが好きだからお弁当に入れてあげようとか、夏場は肌着を多めに買っておこう、といった声がでてきた時には積極的に拾ってもらって、夫婦間でコミュニケーションがとれるようになると、育児の負担感は減り楽しみは増していくのではないかと思います。

 

【 家事と育児の両立で意識していることは何ですか? 】

パートナーとの連携はお互い常に意識しています。

日によって必要となる役割は様々ですので、果たすべき役割をできるだけ正確に把握するため、事前にコミュニケーションを取り、子供の動きを中心としてその日お互いがどんな一日を過ごす予定なのか、共有するようにしています。

例えば、幼稚園があり、かつ日中妻にも用事があって、しかも降園後は習い事がある等、ほとんど時間的余裕がないことが事前にわかっている場合、私の役割として考えられるのは、前日に掃除や洗濯物を済ませておく、簡単に調理できるような献立を考える、あるいは食材を予め買っておく、仕事帰りに夕食を買って帰る等、ある程度絞られてきます。

何をどう分担してその日を過ごすか、パズルのピースのようにでこぼこしている互いの予定やスキルを事前に把握して、うまく組み合うように調整しておくことで、負担を減らすように心がけています。

 

【 育休をもっと取りやすくするために必要なことは何だと思いますか? 】

様々な要素があるとは思いますが、「育休に対する理解を深めること」と「育休が取れるだけの経済的な余裕をつくりだすこと」この2点は特に重要だと思います。

これは何も各個人のようなミクロなレベルだけでなく、むしろ社会全体のようなマクロなレベルでも必要になると考えます。

命を生み出すという行為や育児という営みをどのようなものとして捉えるかという価値観に関わる抽象的な部分から、育児にどれくらいの負担がかかりどのように取り組む必要があるのかという具体的な部分まで、十分に学んでいくことで育休という制度に対する理解が深まる。

他方、理解があったとしても経済的な余裕がないと、取りたくても(取らせてあげたくても)取れないという結論になりかねません。

一朝一夕にできることではないかもしれませんが、この2つの要素を満たしていくことが、育休取得という結果に結びついていくように思います。

 

【 本業と副業の両立で意識していることは何ですか? 】

両者が相互に良い影響を与えあうような活動やバランスを大切にしています。

例えば今回の講演は、私の教師としてのスキルを発揮する絶好の機会であると同時に、男女共同参画について自治体の方から具体的な取り組みを学ぶチャンスでもあり、日々の授業にも還元できるものでした。

私の本業は教員ですが、副業として漫画を描き、講演をし、コラムを書かせていただくこともある、そのどれもが互いに影響を与えあっています。

本業の経験が副業に活かされ、副業の経験が本業にも活かされる形が理想だと思う。

副業の経験を個人の自己実現に留めず、教育活動という形で学校に還元させることができる点が、教員が副業をすることの意義の1つだと考えています。

 

【 一人で育児していく上で、あれば助かるサービスはありますか? 】

いわゆるワンオペの状態をイメージすると、単純に業務量が多すぎて一日がまわらない、子供の心に寄り添うような余裕がまったく生じないような状態に陥ることが予想されます。

個人的には親じゃなくてもできる、誰でもできるようなことがあれば、そのあたりを中心にサービス利用で埋め合わせていくのが良いのかなと思います。

となるとまず思いつくのが家事の代行。

具体的には部屋を掃除してもらうとか、一週間分の料理を作ってもらう等、こういったサービスを行政がサポートしてくれている自治体もあると聞きますが、利用してみるのも良いかもしれません。

 

【 育休取得前に準備しておくと良いと思うこと 】

各種行政サービスは一通りチェックしておいても良いかなと思います。

自治体によっても取り組みは違うと思いますが、思わぬ便利施設やサービスがあるかもしれません。

当事者になってみないと視界に入ってこないかもしれませんが、事前に知っておけると有利だと思います。

 

夫婦間で出産後の生活について、できるだけ具体的に場面をイメージしてコミュニケーションをとっておくことも大事だと思います。

例えば子供が急に高熱を出したとして、誰がどこにどんな手段で連れていくのか、電話で相談するとしてもどこにかけるのか、病院の場所や相談窓口を調べておくだけでも対応に大きな違いが生じると思います。

これは何も緊急時だけでなく通常時の生活においても同様です。

例えば夜の授乳はどうするのか、完母体勢でいくのか、夜だけは粉ミルクにして妻にはしっかり休んでもらうのか、はたまた日中に搾乳しておいたものを冷蔵して夜に使用するのか。

やってみないとわからないことも多いですが、仮に予定が変更されるとしても、事前のコミュニケーションは双方の納得に繋がり、ひいては夫婦間の足並みに直結するように思います。

 

最後に、これは個人的に感じたことですが、もっと早く家電を充実させておけば良かったなと思います。

例えば我が家では今ホットクックという家電が活躍しているのですが、もっと早く買っておけば良かった。

というのも、これを利用すると離乳食を比較的手軽にたくさん作ることができるんです。

当時は全て鍋やレンジで作っていたのですが、手間がかかってしょうがありませんでした。

どうせ買うなら、いっそ早めに用意しておけば良かったです。

我が家にはスペースの都合上置けないのですが、乾燥機つき洗濯機の評判もよく聞きます。

育児中は洗濯物が増えますし、一つ一つ干して取り込む時間的余裕も厳しい。

家電で楽できるとしたら、利用しない手はないと思います。

ちょっと高めなものもありますが、家電は比較的コスパに見合うというか、投資しがいのある分野だと感じています。

 

【 子育てをする中で子供に「こうなって欲しい」などといった願いはありますか? 】

自分なりの人生を自分なりの方法で楽しんでもらえたらと思っています。

自分を愛し、他者を愛してほしい。

そのための精神性やスキルを身につけていってもらえたら嬉しいです。

 

【 育児も仕事も楽しむために大切なことは何だと思いますか? 】

主体性が大切だと考えています。

育児も仕事も、私自身が人生の中で選択してきたものです。

この「自分で選んだものである」という意識の中に、私は誇りや自信を見いだしており、これがやりがいや楽しみの源泉になっていると感じます。

仕事に行きたくない日もありますし育児に負担を感じる日もありますが、仮にうまくいかないことがあったとしても、その原因は環境や条件の方にあり、それらは改善することの出来るものだと信じています。

いずれの営みも意義深いものだという確信があり、それを選択したことに対して納得のような感情が私にはあるのだと思います。

 

【 一番幸せを感じる時間はどんな時ですか? 】

子の就寝後、妻と一日を振り返ってお話している時に特に幸せを感じます。

かけがえのないものを介して、心を通じ合わせることができているような感覚を覚えるからです。

私があまりにもこの時間を好むせいで、布団に入ってからも会話が終わらず、就寝時間が遅れがちになってしまうのが難点です。

 

【 子供に注意するときに気をつけていることはありますか? 】

「注意すること」と「自分の感情を処理すること」を混同しないように気をつけています。

例えば子供が何か良くないふるまいをした際に、それを注意して望ましい行為を示すことは必要ですが、そのふるまいに対してこちらがイライラした態度を示したり、とげとげしい言葉をかけることは必要ないどころかむしろ逆効果にすらなりえます。

実際の場面においてはついつい怒りのような感情が沸いてきて、その気持ちが先行するような形で指導に入ってしまいそうになることも少なくないですが、できる限りそこは区別するように気をつけています。

自分の感情を否定することはありませんが、子供にぶつけるのもお門違いです。

それはそれとして別の手段で晴らすように心がけています。

 

【 教員の多忙化を踏まえて、働き方のビジョンはありますか? 】

私自身の働き方を見直すことも大切ですが、教員の多忙化の現状は個人の努力では解決しきれない部分も多いと感じています。

内容面だけでなく、そもそものシステム面から見直していくべき箇所が多いように思いますので、自分の手の届く範囲で改善のためのアプローチを続けていきたいと考えています。

具体的には、副業を中心とした教員の柔軟な働き方の提案や実践、長時間労働是正を目的とした訴訟への支援、外部人材活用のためのNPO法人立ち上げに向けた活動など、微力ながら進めているところです。

 

【 子供にきつく叱ったりしてしまった時、どんな風にフォローしていますか? 】

自分の言い方や向き合い方に良くない点があった時には、すぐに謝るようにしています。

その際は、何がどう良くなかったのか、できるだけ具体的にかつ簡潔に、子供に伝わるような表現を心がけています。

こちらからの言葉に対し、子供からも何か言葉がでてきた時には、傾聴に徹するようにしています。

情けない話ですが、私は望ましくない関わり方をしてしまうことが少なくありません。

そのため比較的よく謝ってしまっているかもしれません。

謝れば済むという問題ではなく、謝らずとも最初から望ましい関わり方ができるよう努力しないといけないのですが、それでも尚やってしまった時には、率直に謝罪するようにしています。

 

【 子供に対し十分に労力をかけてあげられるようになるためには社会全体がどのような考え方になるべきだと思いますか? 】

現状は、子育てをしている人たちとそうでない人たちとが、しばしば対立してしまう状況があるように思います。

例えば職場にて誰かが育休を取得すると、その分のしわ寄せが残った人たちに回っていってしまう等、こうした状況では融和的に未来を描いていくことは難しいでしょう。

本来、子供に力を注ぐことは、育児をしている人たちにとってはもちろん、そうでない人たちにとっても益のある選択であるはずです。

極端な話、このまま少子化が進めばやがては税収が落ち込み、社会保障を初めてとして多くのシステムが十分には機能しなくなるでしょう。

そうなれば国民全体にとって不利益が生じることになります。

直接的に育児に関わっているか否かに関わらず、それぞれの立場の人たちがそれぞれに役割を発揮できるよう、融和的な策を考えていくことが大切だと感じます。

子供は親だけでなく、社会全体で育てていくものです。

具体的な策が思い浮かばず不甲斐ないのですが、不公平感や贔屓感の少ない、できるだけ多くの人が必要性を実感できるような、当事者意識を持てるような方向性が望ましいと思います。

 

【 パートナーから言われて辛かった、納得できないような言葉をかけられたことはありますか? 】

厳しい言葉をかけられてしまうことがなかったわけではないのですが、納得できないような理不尽な言葉をかけられたことはないように思います。

というのも、基本的に妻は私よりずっと賢い人であり、言葉を用いる際にはそれがどんな風に相手に届くか、私より遙かに深く考えを巡らせています。

私が考える程度のことは、言葉を発する前から妻は予測しているわけです。

その上であえて厳しい言葉をかけられることがあるとすれば、当然そこにはそういう表現を用いるに至った何かしらの考えや意図があるということになります。

厳しい言葉自体は、私に一時的なショックを与えるかもしれません。

しかし私はいつまでもショックを受けている場合ではありません。

一刻も早く、その意図をくみ取り、望ましい解答を示す必要があるからです。

私の能力に対する妻の見積もりは時折ゾッとする程に正確です。

私が努力しても尚解答を示せないような無理難題はそもそも提示しません。

厳しい言葉をかけられる時、私は試されていると感じます。

 

【 夫婦が同時に余裕を失ってしまった時はどのように打開していますか? 】

ひたすらサボるようにしています。

料理は外で買ってくる、掃除はもう今日はしない、外で遊ぶのはやめて室内で映画を見る等、極力頭と体を使わずに済むように過ごします。

その際は子供たちに対し、自分たちが余裕を失っている現状やその原因について、できるだけわかりやすく伝えるようにしています。

子供たちからは不満の声があがることもありますが「自分で自分を楽しませるために、何かいい方法ない?」といった投げかけをしてみると、それなりに工夫して過ごしてくれたりしています。

 

【 料理などの家事は子供が生まれる以前より一通りできましたか? 】

子供が生まれる頃にはある程度できるようになっていましたが、妻と同棲を始めた頃はほとんど何もできませんでした。

というのも私はそれまでずっと親のすねをかじって生きてきたため、生活能力がまったくなかったのです。

ただそれは妻もほとんど同じ状況でした。

料理も洗濯も掃除も、ほとんどやったことがない2人が同棲を始めたわけですから、当初はなかなかにひどいことになりました。

ただ逆に2人とも同じように出来なかったからこそ、互いに協力し合って少しずつ能力を磨いていくことができました。

結果として、子供が生まれる頃には2人ともある程度の家事は一通りできるようになっていました!

 

【 子育てに関する情報は主にどこから収集していますか? 】

ネットから情報を得ることもありますが不確定なものも多いため、複数サイトを当たるようにしたり、保育園や幼稚園の先生や医者など専門家に確認するようにしています。

先輩ママパパに教えてもらうこともあります。

 

【 イヤイヤ期の子供に対する接し方で気をつけたことはありますか? 】

1人でずっと向き合っているとどうしてもイライラしてしまいがちなので、妻と協力して精神的に余裕がある方が前にでるようにしていました。

例えばご飯の際には、余裕のない方が調理を担当し、余裕のある方が食事の補助をする等、その時々で前衛後衛を切り替えるようにしていました。

 

【 職場の条件が全て整っていたらとしたらどれくらい育休を希望したと思いますか? 】

少なくとも1年は取得したと思います。

期末勤勉手当が得られないのは大きいですが、もろもろの補助のおかげで約1年間は勤務時とそんなに変わらない収入を得ることができ、経済的に安定した状態で育児に向き合えると思うからです。

 

【 家族の好きなところを教えてください 】

これはもう書き出したらきりがなくなってしまう恐れがありますので簡潔にまとめたいと思います!

 

妻は、人間的にとても情が厚く、それでいて非常に聡明な一面を持っており、そういった点を特に尊敬しています。

妻のことが好きであると同時に、妻のことを好きでいる自分のことも好きです。

短い言葉でまとめるのは難しいですが、一緒にいると誇らしい気持ちになるというか、何かすごくいい流れの中にいるような気持ちになれます。

 

にには、とにかく穏やかな人間で、かつとても賢いです。

物事の捉え方に温かみがあり、何かを表現する時にもやわらかい言葉を選びます。

心根の優しいところが私は大好きです。

 

ととは、とても明るい人間で、いつでも自由に気持ちよく生きています。

ポジティブな感情はもちろん、ネガティブな感情も拒むことなく、そのまま受け止めてそのまま表現する。

どんな時も自分らしさを見失わないところを私は気に入っています。

 

たくさんのご質問ありがとうございます!

私も自分の考えを深めたり整理したりすることができ、大変助かりました!

また何かいただくことがございましたら、また回答させていただきます!

『moon』で考える「愛」

にには夜になると寂しくなってしまうのか、時々起きて泣いてしまうことがある。

背中をさすり子守唄を歌っていると程なくして穏やかな寝息が聞こえてきた。

愛しさで胸がいっぱいになる。

この胸に中に、確かに「愛」があると感じる、だが…

「愛」とはいったい何だろう

ぼんやり考えてみた。

かつては隠れた名作と言われていたが、最近ではもはや名作過ぎて隠れきれていないゲームを引用したい。

タイトルは『moon』。

もともとはプレーステーションのソフトだ、今ではスイッチでもプレーできる。

一応ジャンルはRPGだが、そのキャッチコピーには皮肉が込められている。

「もう、勇者しない」

正直好き嫌いが分かれやすいゲームだ。

内容は非常にとがっている。

しかしそれ故に一部の人の心に深く刺さり、もはや一生抜けないレベルのインパクトを残してきた。

名作に対して無粋とも言える言葉ではあるが私からも一言すえておきたい、このゲーム…

めちゃくちゃ面白い

今回は『moon』を題材に、まさに本作のメインテーマでもある「愛」について考えてみたい。

ここから先はゲームのネタバレを含む。

特に本作の場合は、ネタバレがゲーム体験において致命的になりかねない。

ちょっとでも気になっている方はプレー後に読むことを推奨する。

 

『moon』のストーリーを比較的シンプルだ。

ある少年が部屋でゲームをしている。

すると突然画面が光り出し、少年はゲームの世界に招かれてしまう。

その世界には勇者がいるのだが、罪のないモンスターを殺し、人の家のものを勝手に奪い取っていく迷惑な存在として描かれる。

プレーヤーに出来るのは、そんなモンスターたちの救済と、この世界の奇妙な住人たちとの交流だ。

救済や交流をするほどに、プレーヤーには「ラブ」が集まり、レベルがあがっていく。

「ラブ」つまり「愛」が深まっていくのだ。

こんな風に書くと、単純で簡単そうに感じるかもしれない。

しかし実際にプレーしてみると、これがなかなかやっかいだ!

というのもこのゲーム、救済や交流に必要な条件に関する情報がほとんど提示されない。

それはプレーヤー自身が主体的に考え見つけ出していくものなのだ。

加えて本作には時間の概念があり、モンスターも住人も皆それぞれに行動している。

いつでもどこでもこちらが求めている対応をしてくれるとは限らない。

ゲームでは通常、NPCはプレーヤー本位に動いてくれる。

ストレスを減らし、快適にプレーしてもらうためだ。

だが『moon』にはそんな常識は通用しない。

彼らには彼らの生活があり都合があるのだ!

結果何が起きるかというと、プレーヤーは救済や交流のために、むしろモンスターや住人たちに歩み寄らねばならなくなる。

彼らのために会話を重ね、アイテムを用意し、適切なタイミングを探る必要が生じてくる。

『moon』はよく「待ちゲー」と称されるが、その所以がここにある。

モンスターや住人たちのために、プレーヤーは結構な時間を待たねばならない。

プレーヤーは痛感する。

「愛」って手間がかかる!

手間がかかるということはつまり、少なからずストレスがかかるということだ。

ただこのゲーム、実はクリアだけならほとんどのイベントを無視することもできる。

強制されていることはほとんどない。

どこまでやるかはあくまでプレーヤーに委ねられている。

更に言ってしまえば、そもそもがゲームなんて強制されてやるものではない。

嫌ならやらなくていいのだ!

にも関わらず『moon』にはついそれをやりたくなってしまう不思議な魅力がある。

プレーヤーは結局、自分の意志でゲームをプレーすることになる。

さながら遊園地のアトラクションのように快適な乗り物に乗って用意された娯楽を享受するのではなく、自らの意志と足でこの世界と関わることになる。

「愛」とは主体的なものなのである!

救済や交流はなかなかに大変だ。

しかしそんな風に手間をかける程に、「愛」は深まっていく。

語られるドラマはプレーヤーの予想を超え、モンスターや住人たちにもそれぞれの事情があり人生があるのだと感じさせる。

この世界は見た目ほどシンプルではなく、その後ろには過去と未来、歴史があるのだということが見えてくる。

プレーヤーは少しずつ…でも確かに、モンスター、住人、あるいはこの世界に対して、実在性を感じるようになっていく。

本当にこういう世界があって、彼らは本当にそこで暮らしているのだと、ある種不気味なほど鮮明に感じるようになっていく。

彼らは生きている!

大切にされなければならない!

「愛」とは他者に対する尊重だ!

『moon』を名作たらしめている理由の一つがまさにここにある。

ゲームだとはわかりつつも、一方で確かにそこに別世界があると感じさせる存在感。

ディスクを通じて、実在する異世界にアクセスしているのだという感覚に襲われる!

やがてプレーヤーは、この世界が抱える課題を本気で解決したいと願うようになる。

「ゲームとして」やりたいのではなく、「この世界に住む一人として」やりたいと思えてくる。

この世界を救う、つまりは全てのモンスターを救済し、勇者の横暴を止めたいと!

 

だが冒険の果てに待っているのは、残酷な結末。

勇者を止めることは叶わない。

ゲームの世界において、勇者は絶対だ。

最後のモンスターは倒されゲームは終わる、つまり…

この世界は終わる

「愛」をもってこの世界と関わってきたプレーヤーにとって、これは辛い。

ゲームが終わると、主人公はゲームの世界から解放され、テレビの前に戻される。

表示される「continue?」の文字。

迷うまでもない。

答えは当然「YES」だ!

今度こそこの世界を救ってみせる!

主人公は再びゲームの世界に舞い戻る。

それがすべて…

ゲーム制作者の狙い通りだとも知らずに

 

舞い戻った先でプレーヤーは万全を尽くす。

イベントを隅々まで回収し、モンスターを全て救済して、あらゆる住人の課題を解決する。

みるみるうちに貯まっていく「ラブ」。

レベルはついにマックスとなる。

もう誰にも負けるはずがない。

満を持してプレーヤーは勇者に挑む!

だが敗北する!

前回とまったく同じ。

世界は終わりを迎え、主人公はテレビの前に戻される。

プレーヤーは心底愕然とする。

いったい何が足りなかったのか。

何も思い当たるものがない。

全てを尽くしても尚足りぬというのか。

画面に浮かぶ「continue?」の文字。

もう私にできることは何もない…

「NO」を選び、「扉を開いて」部屋をでていく主人公。

プレーヤーの胸のうちは無力感でいっぱいだ。

しかし次の瞬間…

奇跡が起きる

終わったはずのゲームの世界に光が満ちあふれ、その住人たちはみな解放される。

突然のことに困惑するプレーヤー。

しかしこれまでのプレーを振り返り、様々な言葉たちを紡ぎ合わせていく中で理解する。

そういうことだったのか…!

プレーヤーはモンスターの救済や住人たちの交流を通じ、この世界にはびこる課題の解決に努めてきた。

それはすなわち悲しみを癒やすことであり、苦しみをなくすことであり、彼らを不自由から解放することであった。

プレーヤーは解放に全力を尽くしてきた、彼らを自由にするために!

しかしどんなに手を尽くそうとも、ゲームであるからには変わらぬ不文律がある。

勇者がいて、ラスボスは倒されるということ。

それは決して揺るがない。

ゲームの世界においては、全てがプログラムによって運命づけられている。

悪者に見えた勇者も同様、自らの意志でその運命を変えることはできない。

見方によっては勇者すらも運命の奴隷なのだ。

ゲームの中にいる以上それは変えられない、ならばどうすればいい?

ゲームをやめてしまえばいいのだ

プレーヤーが自ら手をくだすことを諦め部屋をでた時、彼らは初めてゲームから解放された。

エンディングとともに写真が映し出されていく。

そこにあるのは、ゲームの世界から解き放たれ、現実の世界で自由に遊ぶモンスターや住人達の姿。

 

本作ではあまり丁寧な説明はなされない。

故に展開に置いていかれたように感じたプレーヤーもいただろう。

だがむしろ、あえて言葉を尽くさず解釈の余地を残したことが、この作品の芸術性を高めているように思う。

自由を獲得した『moon』のキャラたちを眺めながら思う。

愛とは解放である

手間をかけ、自ら主体的に関わり、尊重してきた相手がいる。

いまや「愛」はかつてない程に深まった。

でもだからこそ最後は、解放してあげなければならない。

心底大切に思っている、信頼している相手だからこそ、最後は手を離し彼の人生を見送らねばならない。

それは切なく苦しいものだ。

目頭が熱くなる。

ずっと一緒にいたかったとすら思うかもしれない。

しかし「愛」は独占の傍にはない、それは自由の傍らにある。

『moon』は最後の最後に、そっとそのことを教えてくれるのだ。

 

私の胸に頭を埋めて眠るにに。

今はまだいい。

手間をかけ、主体的に、尊重することができる。

でもいつかは私もまた…

扉を開く日が来るのだろう。

FF9が私に教えてくれたこと

子供が生まれ親になったことで、以前より考えるようになったことがある。

それは、大人と子供について。

以前私はクレヨンしんちゃんの映画、『大人帝国の逆襲』を題材に、「大人とは責任を負う態度を指す」と定義した。

papa-atama.hatenablog.com

今回はその定義を下敷きにしながら、責任を負うにしてもどんな責任を負えばよいのか、また別の作品を引用しながら考えてみたい。

 

今回紹介するのは

ファイナルファンタジー9』

同シリーズの7や10に比べると少し知名度は低いかもしれないが、ストーリーに対する評価が高いのが特徴だ。

キャラの感情描写が丁寧で感情移入しやすく、そのラストに思わず涙した人も少なくないだろう。

例によって作品の内容に触れながらお話するので、プレーの予定がある人は先に遊んでみてから続きを読んでほしい。

 

9のストーリー、その中心軸の1つに据えられるのは主人公ジタンと宿敵クジャとの対立だ。

その対立を通じて描かれるものが、今回の主題となる。

ジタンはとにかく気持ちのいい男だ。

お調子者でかっこつけ、女好きだが実直で、心根の優しい人間。

過去の記憶がないが、囚われることなく自由に生きている。

情に厚くおせっかいな性格で、危険があっても弱者に手を差し伸べ、決して見捨てない姿は率直にカッコイイ。

そんな彼の人柄は、周囲の人間を惹きつける。

特にヒロインであるガーネットにとっては、物語の進行とともに自分を理解し支えてくれる精神的支柱のような存在になっていく。

幸せになって欲しい、自然とそう感じさせるようなキャラだ。

しかし同時に不安も覚えさせる。

というのもFFの主人公には…

挫折と葛藤がつきものだからだ…!

過去作には別人物と自分とを倒錯してた人もいたし、思わぬ副作用で自分でも気づかない内に記憶を失っていた人もいた。

ジタンにもきっと何かある…!

彼の顛末が気になり、プレイヤーは物語から目が離せなくなる。

 

一方のクジャはというと、自己中心的でナルシスト、それでいて他者をいたぶることを楽しむサディスティックな一面まである。

極めて高い能力を持つものの、精神的には非常に不安定で、危険な脆さを感じさせる男だ。

物語の黒幕といった立ち位置で、ゲームが進行するほどにその残虐性が表にでてくる。

好青年であるジタンとは対照的に描かれる人物。

そんな彼の人柄は、人々を遠ざける。

特にガーネットにとっては、故郷や親類に至るまでその全てを奪った人物であることが発覚、脅威そのものといった存在になっていく。

幸せになるべきではない、自然とそう感じさせるようなキャラだ。

しかし同時に好奇心を駆り立てられる。

これだけのことをやってのけた悪役が果たしてどんな最期を迎えることになるのか。

ただではすまないはずだ…!

彼の顛末が気になり、プレイヤーは物語から目が離せなくなる。

中盤までプレーしての概ねのプレイヤーの予想は、ジタンはクジャによって追い詰められるが最終的には逆境をはねのけ勝利を飾る、というもの。

ジタンは正義でクジャは悪。

前者が勝利し、後者は敗北する。

前者が受け入れられ祝福を受けるのに対し、後者は退けられ退場を余儀なくされる。

当初から描かれている通り、両者は対照的であり…

2人は異質な存在だ!

物語を進めながら、プレイヤーはそんな風に考える。

しかし終盤、そんなプレイヤーの予想は裏切られることになる。

失われていたジタンの過去が語られる中で、ジタンとクジャは両者ともに作られた命であり、しかもその目的は世界の侵略であったことが発覚する。

両者は同質な存在だったのだ!

衝撃の事実を前に注目したいのは、両者の反応の違いだ。

 

ジタンは、自分は自分が今まで大切にしてきたもの、仲間やこの世界を破壊するために生まれた存在であったことを知り、アイデンティが崩壊、廃人のような状態になってしまう。

しかしそれでも…

責任を負おうとする!

これはまさに大人の態度である。

ボロボロの体を引きずるようにして、彼は自らを生み出した元凶との決着をつけようとする。

ただ今回、この記事を書くにあたり掘り下げたかった点はこの先にある。

責任を負おうとする姿勢は素晴らしいのだが…

肝心の責任がでかすぎるのだ!

あまりにも強大な敵。

万に一つも勝ち目はない。

向かっていっても惨めに死ぬだけなのは目に見えている。

プレーしながらにして考えさせる。

あまりに過酷な状況でも、我々は責任を負うべきなのだろうか

あるいはそれは可能なのだろうか

責任を負おうとする姿勢、美しいはずの姿がこの時ばかりは悲しく映る…

 

しかしそこに、駆けつけるものがある…!

苦楽を共にした仲間たちだ。

彼らはジタンに寄り添おうとする。

ジタンはそれを退けてしまう。

これは自分の問題であり、誰のものでもない自分の責任、自分で解決すべきものなのだと!

しかし仲間たちは譲らない。

誰一人、場を後にしないのだ。

ここに表現されていることがある、それは責任は責任でも…

他者の責任を負う姿勢!

自分の責任だけを負うのではなく、他者のものまでも負おうとする。

おせっかいとも言えるこの姿勢がいかに重要か、物語はプレイヤーに語りかける。

人生が我々に課す責任の中には、一人で負うにはあまりには大きすぎるものが含まれている。

理不尽な話だ!

しかしそれでも絶望することはない。

責任は誰かと共に負うことができるからだ!

仲間たちはどうしてジタンを見捨てなかったのか。

プレイヤーは何も疑問に思ったりしない。

何故なら、他でもないジタン自身が、これまで繰り返し他者の責任を負ってきたから!

身分も生まれも何もかも違う、助けたからって何の得もない、そんな人達のことをジタンは一度だって見捨てたりしなかった。

だから、今度はジタンの番なのだ

自分の責任を他者に負ってもらうこと、そこには苦しみが伴う。

退けようとしたジタンの気持ちもわかる、でもそうやって誰もが人生を乗り越えていく。

だからこそこんなにも…

あたたかいのだ!

このシーンは、FF9屈指の名シーンとなっている。

バックでは名曲「独りじゃない」がかかるのだが、冒険を共にしてきたプレイヤーにとっては全てが沁みいるシーンで、思わず涙が込み上げてくる。

プレー当時も泣いた私だが、この記事を書くに当たってシーンを見直し、迂闊にもまた泣いてしまった。

かくしてジタンは力強く立ち上がる。

 

他方のクジャはというと…

一切の責任を負おうとしない!

あまりにも大きな責任、自分だけでは負いきれない。

しかし彼にはそれを共に負ってくれる仲間も存在しない。

ゆえにどうしようもないのだ。

ただ彼には高い能力がある。

能力を駆使して元凶を殺害、世界を憎み全てを破壊せんとするクジャ。

課された責任の全てを自らは放棄し、他者にとらせようとする。

何もかもを台無しにすることで。

他者の責任を負うのか、それとも他者に責任を課すのか、生き方の違いが命運を分ける。

因縁の二人は決着の時を迎える。

勝利をおさめたのはジタン。

これ自体は予想外ではない。

祝福されるべきはジタンの生き方であり、クジャの生き方は破滅的だ。

多くの犠牲を強いたクジャには死という結果が訪れる、誰もがそう予想したであろう。

仮にそうなっていたとしても、9は十分名作だった。

しかし物語はプレイヤーの予想を上回る!

 

ラスボス撃破後、ダンジョンは崩壊を始め一行は脱出を試みる。

しかしジタンは仲間と共には向かわない。

彼は瀕死のクジャを助けに向かうのだ、自らの命をかけて。

プレー当時、この展開には心底度肝を抜かされた。

徹底している…!

他者の責任を負う姿勢が大切、それはもう嫌という程わかったつもりでいた。

しかしそれでもやっぱり責任を負う必要のない相手だっているんじゃないか?と思っている自分がいた。

助ける価値もない奴だっているんじゃない?と

クジャがどれだけ多くの悲劇を生んだか、もはや死をもって償う他ないだろうと。

しかしジタンはそれを否定する。

相手が誰とか、何をしたとか、関係ない!

徹底して他者の責任を負う…!

 

崩壊するダンジョンの最深部で2人は語りあう。

憔悴しきったクジャが、初めて本音を語る。

「僕は…この世にいらない存在なんだ」

彼の出自を考えると悲しい、あまりに悲しい言葉だ

ジタンは答える。

「この世にいらない存在なんてないさ」

冒険を、あるいは自らの人生を振り返って、共感する。

本当にその通りだ。

むしろだからこそ大変なんだ。

いらない存在を規定するなんて、実はただの逃避でしかない。

そんなもの何一つないから、私達は苦労しているんだ。

クジャは…

一番言われたくない相手に、一番言われたい言葉をかけられてしまう

彼は続ける。

「…どうして助けに来たんだい?」

これはプレイヤー自身の疑問だ。

どうしてジタン、お前はそんなにいい奴なんだ。

なんでそこまでできる?

クジャを助けに向かう直前、仲間の一人が問いかける。

助けに向かうのは産まれを同じくする存在だからかと。

ジタンはそれを明確に否定している。

じゃあなんだってんだ。

彼は答える。

「誰かを助けるのに理由がいるかい?」

恐らく9で一番有名なセリフ。

ずるいじゃないか、そんな答え。

でも納得する他ない。

誰もが独力では生きられない以上、助け合いは必要だ。

ただ他者の責任を負うという姿勢に、打算的な考えは馴染まないのかもしれない。

割がいいかどうかなんて、いちいち考えて行為を選んだりしない。

それは相手や状況で変わったりするものじゃない。

ジタンは、結果から逆算して行為を決めたりしないのだ。

いつでも変わらない動機があるだけだ。

だからブレない!

だからカッコイイのだ!

ジタンが責任を負ってくれたことで初めて、クジャは自分で自分の責任を負えるようになる。

自分の人生と向き合えるようになる。

対立は殺し合いではない形で決着する。

わかりあう2人、しかしそんな両者を、残酷にも瓦礫が飲み込んでいく。

そして物語はエンディングへ。

詳細は省くが、このゲーム以上に大団円という言葉がふさわしいラストもないだろう。

スタッフロールを見ながら『Melodies of life』を聞く。

いつも聞いてたフィールド曲に歌をいれたものだ。

涙が止まらない(泣くの何回目?)

ダメだって…

オタクはこういうのに弱いんだから!

 

物語は終わった。

電源をおとす。

いつもの部屋。

大冒険は所詮ファンタジー

目の前にあるのは変わらない現実。

これからもきっと理不尽なことがたくさんあるんだろう。

それでも生きていく!

最後にビビの言葉を引用したい。

何をするために生まれてきたのか、いったい何をしていきたいのか、そんなことを考える時間をくれてありがとう!!

5歳児を抱えて見る大人帝国の威力が半端じゃなかった話

洗濯物をしようとすると、すぐにととがやってくる。
手伝ってあげるとのことなのだが、こちらの指示は聞かず、自分が渡したいものばかりを押しつけ、こちらの干しが遅いと文句を言い、あげく飽きると投げ捨てて去っていく。
思わずため息がもれる。
洗濯物ものだけならそこまで苦ではない。
しかしそこに子供が加わると、とたんになかなかの重労働になる。
掃除も買い物も料理もそうだ。
思えば昔は本当に自由だった。
何でも、とはまではいかないまでも、基本的には自分のペースで生活できた。
今では趣味をやろうにも自由時間は夜だけ、それも疲れ果てて眠ってしまうことの方が多いくらいだ。
べちゃ!
私が遠い目をしている間に、また一枚洗濯物が叩き落された。
もはや注意する気力もない。
昔を懐かしんでしまう自分がそこにいた…
 

 
クレヨンしんちゃん大人帝国の逆襲』
名作の多いクレしん映画の中でも特に評価の高い作品である。
つい先日、ちょっとした思いつきで、これを家族みんなで視聴した。
「涙腺が大変なことになるかもしれない」という予感はあったが、何回か見たことがあり、内容を知っているから耐えられるつもりであった。
が、ダメだった…
描かれる何もかもが、あまりにもよく理解る。
これまでは見落としてきた全てのシーンが、ことごとく心に刺さる。
 
父になり、しんちゃんと同じ5歳児をあぐらに抱えながら見る大人帝国の威力は、生半可なものではなかった…
 
※ここから先は作品を見ている前提で書いています。
ネタバレを喰らうにはあまりにも惜しい作品ですので、未視聴の方は是非ご覧になってみてください。
 
私の心は、導入からしてすでにダメだった。
大人帝国からの極めて簡素な一斉放送があり、大人たちが豹変する。
子供の世話を一切せず、好き勝手に過ごし始める。
異変を感じたしんちゃんが、ひろしとみさえに叫ぶ。
 
「風呂に入れろ!」「仕事に行け!」「飯を作れ!」
 
瞬間ガツンと頭を叩かれたような気分になった。
風呂に入れるのも、仕事に行くのも、飯を作るのも…恐ろしく億劫なのだ…!!
かつて学生時代にこの作品を見た時には何も感じなかったセリフ。
大人が働くのは当たり前であり、親が飯を作るのは当然であって、検討の余地はないように思えたからである。
だが今は違う。
結婚し、家族を養い、家のローンを払いながら、休みなく育児に奔走する今の私には、その苦労が痛い程わかる…!
毎日精一杯頑張り、それでもうまくいかず、時に涙し、今とはまた違った選択をした自分のことを思いえがくことすらある今の私には、極めてな酷なセリフ…
内心思う。
 
君が思う程簡単じゃないんだ…!!
 
しかし困惑する子供に対する、大人たちの応酬は、圧倒的に残酷である。
ひろしは「それをやんなきゃいけない法律でもあんのか!?と毒づき、しんちゃんが大切にしていたお菓子を全部食い尽くした上にげっぷをふきかけ、挙げ句の果てにあっかんべ〜までかます
みさえは、抱きつき甘えようとするひまわりに対し「なんだこのガキ!」と罵り、怪我をしても構わぬといった様子で乱暴に振りほどこうとする。
それらのシーンをみて、ににやととは大笑い。
彼らには大人たちのおかしな行動がコミカルに映るのだろう。
しかし私は、かけがえのない価値が無惨に汚されていくことに対する絶望と、その価値を守るための努力があまりに大変であり、ゆえに努力を放棄しようとする大人たちに対する共感にも似た感情の間で、早くも精神崩壊寸前にまで追い込まれていた。
野原一家が破壊されていく…
 
その後はしばらくコミカルパートが続く。
春日部防衛隊によるバスでのカーチェイスシーンは、底抜けに面白く、傷ついた心を癒やしてくれる。
仮にこのシーンがなかったら、大人帝国は内容が重すぎて子供向け映画を名乗ることができなかったかもしれない。
大人はここで一度、ダウン寸前にまで追い込まれた心の状態を整えることができる。
逆に言えば、ここで一度整ってしまうことで次のシーン、作品最大のドストレートをもろに喰らうことになるのだが…
 
そのドストレートとは言うまでもなく、ひろしの回想シーンである。
涙腺にくると構えていても、避けられない。
それは、大きな背中を見上げるところから始まる。
視点が低いことで、姿を映さずともそれがひろしの幼少期だとわかる粋な演出。
自転車の後ろに座り、遊びに連れて行ってもらう途中のひろし。
穏やかで豊かな子供時代であったことが伝わってくる。
 
ありのまま生きるだけで、愛情を受け取れた夢の時代。
 
やがてひろしは成長し、自転車も自分で漕げるようになる。
子供時代は過ぎ去り、自らの人生を背負い生きていくようになる。
そこにあるのは苦労の連続である。
上司に頭を下げ、暑い日も寒い日も働き、電車の中で寝落ちてしまう程疲弊しながらも、家に帰る。
待っているのは家族。
特別派手なことがあるわけじゃない、本当に何でもない、ごく普通の日常。
しかしそんな当たり前の日常の裏に、どれだけの積み重ねがあったのか。
自分が学生だった頃、家事も育児も大人の当然の義務であり当たり前のことだと思っていた頃は、穏やかな家庭もまた当たり前であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし家族をもった今の私にとっては、自らの人生と映像とが共鳴しあい、共感のあまり胸がつまってしまう。
わずか3分、セリフも一切ない。
静かな音楽と共に映像が流れるだけ、それだけなのに、涙を堪えられない…!
ふと横を見ると…
 
妻が泣いている…!
 

 
かつては繊細で優しく、人に謝ってばかりだった妻。
しかし過酷すぎる職場を経験し、体調を崩すもそれを力強く乗り越え、ちょっとのことではびくともしない、鉄の心を身につけたあの妻が、心の底にあったやわらかい部分をつかれて肩を震わせている!
なんて映画だ、大人帝国…!
 
クライマックスは階段の駆け上がりシーン。
ごまかしの一切きかない、ただ階段をあがっていくだけのシーンなのだが、胸をうってしょうがない。
 
なんなんだこれは、なんでこんなに心に刺さるんだ!
 
視界はぼやけっぱなしなのに、全然目が離せない…!
全力を尽くすも、ケンとチャコがスイッチを押すことは止められなかったしんちゃん
しかし悪の計画は阻止される。
野原一家の様子を見て構成員たちの心が動き、過去に戻ることを拒んだからである。
大人になってから視聴して気づいたことだが、この映画…
 
構成が見事すぎる!
 
というのもストーリー全編に渡って、展開が大人の心とシンクロしているのだ。
冒頭、現代社会や日常生活に疲れ果て責務を放棄する大人たちの描写から始まり
中盤、それでも自分たちが積み重ねてきた日常には価値があることへの気づきを経由して
終盤、大人になることの辛さを自覚しながらも過去への回帰を拒否して未来を望むに至るまで。
本当に全部その通りで、計画が阻止された様子を見ながら視聴者は、責務を放棄することに共感したことに対する後ろめたさや、もう子供には戻れない切なさも全部含めて、この結果に深く深く納得!
ぐぅの音もでない…!
 
ここで終わっても、文句なしの名作であった。
しかし大人帝国は、ここから更にもう一捻りを加えてくる。
子供時代にはもう戻れない。
しかし生きていくのはあまりに苦しい。
ではどうするか。
計画を阻止されたケンとチャコは、飛び降りによる自殺を図ろうとするのである。
ひろしとみさえはそれを止めることができない。
映画は、その役割を大人には与えないのだ!
代わりにしんちゃんが叫ぶ。
 
「ずるいぞ…!」
 
叫び声に驚いたハトが飛びたち進行を邪魔されたことで、二人の凶行は機を損なう。
大人になって見てみると、このセリフ、なかなかに酷である。
というのも大人は知っているからだ。
 
人はみなそれぞれの地獄を背負っていることを!
 
ケンとチャコに何があったのか、映画では描かれない。
しかし大人であれば、これだけの計画を実行に移すだけの、あるいは自殺しようとするだけの、地獄が過去にあったのだろうと推察できてしまう。
だからこそひろしとみさえには、彼らを止められないのだ。
地獄を味わい自殺を決意した者からすれば、安易な言葉がけはむしろ
 
「お前に何がわかる!?」
 
という話なのである。
しかし、それでも尚なのだ。
ここまで大人を深く描ききった大人帝国の監督が、上述したようなところを意識しなかったはずがない。
つまり、意識した上で尚、そうすべきでないと伝えているのだ。
大人帝国は描く。
人には人の地獄があり、それは推し測りきれない、それは確かにそうだ。
しかしそんなことは…
 
子供にとっちゃ知ったことではないのだと!
 
お前にも事情はあるのかもしれない。
しかしとにかく僕は子供で、お前は大人なんだ、それは揺るがない。
だったら…
 
お前は大人として行為しろ!!
 
ここで言う大人とは、責任をもって生きることを指している。
ケンは一見してカッコいい。
カリスマ性があり知的だ。
計画が阻止された際、彼は構成員にこう告げる。
「今日までご苦労だった。これからは各々自由に生きてくれ」
悔しがるでもなく、あくまで落ち着いた様子で語る姿には、潔さすら感じる。
しかし見方を変えれば、これは無責任である。
自らの野望のために多くの人間を巻き込み、子供たちに犠牲を強い、失敗したあげくに自殺を図る。
ケンは、何も責任をとろうとしない。
それを踏まえての「ずるいぞ…!」なのである。
大人でなく子供がそれを言うからこそ、ケンには返す言葉がないのだ。
 
言わずもがな、クレヨンしんちゃんは子供向け映画である。
公開当時、劇場には子連れの大人たちがたくさんいたはずだ。
それを思うと、改めて凄まじい映画である。
さんざん共感させ、かけがえのない価値を提示し、唯一の逃げ道すら塞いだ上で、最後に問いかけてくる。
お前はどう生きるのか?と。
 
一緒に映画を見た、その小さな命に対して、お前は大人として、どう生きていくのか!?
 
あまりに大きな宿題。
しかし何かが湧いてくる。
それは涙だけではない。
身を焦がすような熱い気持ちが、心の底からフツフツと湧いてくる…!
 
ととが洗濯物を地面に叩きつける。
それをににが拾う。
 

 
「ととちゃん、ににも手伝うよ」
形を整えて私に手渡してくれるにに、ととに対してもしわを伸ばす技を教えてくれる。
思えばににも、昔は洗濯物を地面に叩き落していた。
しかし今では立派に手伝ってくれている。
子供は成長するのだ。
ににに教えてもらい、得意になったととが叫ぶ。
 
「ととちゃん、大きくなったら、色んなことするんだ!」
 
これはととの口癖である。
彼は大きくなることを、楽しみにしているのだ…!
それでいい、それでいいのだ。
子供の役割は、未来を楽しみにすること。
そして大人の役割は…
 
楽しみにできる現在をつくることだ…!

ににの考え事

ある日のこと、ににが道端のたんぽぽを眺めていた。
「にに、たんぽぽが好きなんだ」
彼は昔から花が好きで、中でもたんぽぽはお気に入りだ。
「でも昔はもっと好きだった」
気になる発言だったので質問してみた。
「昔に比べて、今はそんなに好きじゃなくなっちゃったのかい?」
「ん〜ん、そうじゃないよ」
「ん?昔はもっと好きだったっていうのは?」
「………」
しばらくの沈黙の後、彼は考え考え伝えてくれた。
「花の名前を教えてもらう前はもっと好きだったのに、名前がわかっちゃったから、今はたんぽぽにしか見えなくなっちゃった」
瞬間思った。
これはすごく大事なことを言ってくれているのかもしれない…!
言葉が足らず、いまいち真意が掴みづらいが、きっと何か大切なことに気づいたのだ。
私は問答を繰り返し、彼の考えを一緒に言葉として整理してみることにした。
彼の主張は凡そ以下のようなものであった。

自分は花の名称を知るより以前からたんぽぽの花が好きだった。
その頃は、その花の存在を自由に感じ取ることができた。
しかし私から「たんぽぽ」という名称を知らされてからというもの、この言葉に拘束されてしまって、以前のように自由にこの花を感じ取ることができなくなってしまった。
彼の言う「好き」というのは単純な好き嫌いではなく、どれだけ自由にそれを感じ取れるのか、を意味しているようであった。

これはなかなか面白い指摘だと思う。
得てして我々は、言葉と対象を同じものだと捉えがちだ。
今回のケースについても、たんぽぽは昔からたんぽぽだったのであって、単に言葉を知らなかっただけだと、別に言葉を知っているかどうかに関係なく、たんぽぽはたんぽぽじゃないかと思いそうになる。
だがこれには注意が必要だ。
何故なら言葉としてのたんぽぽと、花としてのたんぽぽそのものは、別存在だからである。
例えば「花」という言葉に対して、我々はどんなイメージを抱くだろうか。
美しい、鮮やか、儚い…人によっても違うだろうが、ある程度こんなイメージで共有できると思う。
ところがすでにこの時点で、我々は少なからず言葉に引っ張られてしまっている。
実際には、お世辞にも美しくない花はあるし、鮮やかじゃない花や、儚くない花だってある。
しかしそういったものはすぐには連想しづらい、というのも言葉のイメージが先行するからだ。
この影響からはなかなか逃れがたい。
我々は日々言葉でやり取りをしているため、言葉を聞いた瞬間、条件反射的に何かをイメージしてしまうからだ。
「日本人」
と聞いた瞬間に先入観が入ってくる。
実際の国籍や、肌の色、母国語、両親が何人か、といったことは実はあまり関係ない。
そのイメージは、言葉に強く拘束される。

ににが言ったのは、恐らくこのことだ。
自分は花としてのたんぽぽそのものが好きだったのだけど、言葉としてのたんぽぽを知ってしまってから、その言葉に振り回されて、たんぽぽそのものが上手に見れなくなってしまったと憂いているのだ。
ににはまだ言葉が未熟である。
自由や拘束といった単語はよく知らないだろう。
しかし無意識的にそれを感じ取ったのだと思う。

しかし彼は何故それを感じ取ったのか、考えてみた。
私の推測だが、それは彼が5歳児で、様々な言葉を修得し使いこなしていく時期、その真っ只中にいるからではないかと思う。
先生や友人とお話したり、本を読んだりして、知らない言葉と出会う機会も増えている。
それに応じて彼の世界も広がりつつあるわけだが、その一方で身動きが取りづらくなっていくような、そんな感覚を覚えたのではないか。
言葉の扱いを学ぶことは、裏を返せば言葉に拘束されていく、一種の自由を失っていくことでもあるのかもしれない。

恐らくだが、彼は間もなくこの自らの気づきを忘れてしまう気がする。
言葉と対象は同存在であり、そんなことは分けて考えるまでもないと感じるくらい言葉の扱いに熟練していく、ある種言葉に支配されていくだろうと予想されるからだ。
でもいつか、振り返る日が来るのかもしれない…

にに、君の毎日は気づきに溢れている。
君は成長途中で、しかもその速度は著しい。
でもその成長によって、失うものがあるとしたら。
知ることで、むしろ見えなくなるものがあるとしたら。
かつてのように、たんぽぽを愛することはできなくなるのか?

たんぽぽを眺める君の顔を見ながら思う。
にによ、君は今
世界を警戒しているんだね…!

公務員兼業の進め方と私の事例

【はじめに】

私には、漫画書籍化の兼業申請が通知の発行や理由の説明を経ることなく不許可となったことに対し、その判断基準や過程において問題があったのではないかとして、都を提訴した経験がある。
この経験から、私は教育公務員の兼業について、法的知識から実際の現場手続きまで、相当詳しくなったように思う。
教育公務員の兼業については、すんなりと話が進む人もいる一方、まったく取り合ってもらえなかったり、手続きがわからずに一歩踏み出せずにいる人も少なくないと聞く。
ここではそうした人たちに対し、私の経験を還元する気持ちも込めて、現状私が把握している限りの公務員兼業の進め方について、解説をしたいと思う。
ただし、これまでいくつも例のある、学校という組織との結びつきが強いタイプの兼業(教科書や資料集の執筆、模試の作成等)については問題なく許可されると予想されるため、ここではこれまであまり前例のない、学校という組織とではなくむしろ個人の能力との結びつきが強いタイプの兼業(文章を書く、イラストを描く、楽器を演奏する等)に力点を置いてお話していきたい。

【申請には2種類ある】

これは私も訴訟を始めるまで知らなかったことだが、兼業の申請には2種類ある。
1つは「地方公務員法に基づく申請」、もう1つは「教育公務員特例法に基づく申請」である。
名前にある通り、前者は地方公務員として申請する形をとり、後者は教員として申請する形となる。
法律上には細かい表記の違いこそあるものの、何をもって許可するかといった基準については、各地方自治体で定めのある内規まで確認しても大きな違いは見受けられない。
ただ兼業の内容によってどちらの申請様式をとるか、大まかな区別はあるようで、以前経営企画室で確認したところによると、大学で講義をする、所属先とは別の学校で講師として働く等、取得免許と関係があり授業に近い活動をする場合は後者で申請しているとのことであった。
しかし逆に言うとそれ以外のものは概ね前者に括られるようである。
例えば教科書・資料集・模試関係のお仕事は私も経験があるが、それらはいずれも前者による申請の形をとった。
今回の話の主題である、前例のないタイプの兼業についても、原則は前者で申請するのが無難かと思う。

【申請に必要なもの】

申請には最低限必要なものが2つある。
1つは「申請書」、もう1つは「依頼書」である。
どちらを用意する際にも、注意すべきポイントがある。
それは「職務専念義務違反の恐れがないこと」と「信用失墜の恐れがないこと」、この2つの点を強調することである。
法律には、公務員の兼業は本務に支障のない限り認められると記載がある。
ここでいう、本務に支障がないかどうか、を判断する際に重要視されるのが、上記した2つの点になる。
では具体的にはどう強調したらよいのか、それぞれ解説していく。

まず申請書であるが、項目にある「必要とする回数・時間等」と「申請理由」の2箇所は注意が必要である。
「必要とする回数・時間等」とは、兼業にどれくらいの時間がかかるのかを示す箇所になるが、ここがあまりに多いと職務に専念する上で支障があると判断されかねない。
国家公務員向けの資料には、兼業は週8時間、日に3時間を基準とするとある
これを越えない範囲で検討する必要があるかと思う。
「申請理由」には、信用失墜の恐れがないという点を意識して、可能であればむしろ公の奉仕者として重要な仕事であることが伝わるように書けると良い。
もしも担当している科目との繋がりが示せるようであればそれも有効である。
地方公務員法に基づく申請は、そもそもこちらが教員であることを前提としていないので、仕事と科目との関連性を示す必要はないし、それを許可の要件とするような法律または内規上の記述があるわけでもないが、記載することで信用に足る仕事であると受け取ってもらえる傾向がある。

次に依頼書について、学校との結びつきの強い兼業の場合は、従事先の団体名・業務内容・期間・報酬・社印・数行程度の依頼文等が記載されていれば問題なく許可がでると思うが、前例のないものの場合は、可能な範囲で細かく書いてあった方が申請は通りやすくなる。
特に留意が必要なのは業務内容。
本務に支障のあるような過度な負担ではないことや、内容面で公務員の信用に傷をつけるものではないことを企業の側にも書いてもらえると心強い。

最低限必要なものは申請書と依頼書の2つだが、場合によってはそれ以外のものが要求されるケースもある。
例えば企業側の企画書であったり、申請者の宣誓書であったり…このあたりのものについては、何か明文化された規則があるわけではないようである。
中には無茶なものを要求されることもあり、そういったものについては交渉が必要かと思うが、比較的負担が少なく用意できるものであれば出してしまった方が無難ではある。
またやや注意が必要な点として、前例の少ない兼業は申請から許可までに時間がかかる傾向がある。
2年かかってしまった私の書籍化申請は例外的とはいえ、通常の兼業申請が数日程度で許可がでるのに対し、前例の少ない兼業は内容確認のための電話やり取りや申請書の書き直しなどが生じやすく、結果として時間が取られやすい。
難しい部分はあると思うが、できるだけ時間にゆとりをもって申請することをお勧めする。

【 許可をいただいた兼業例 】

以下では、私が正式に許可を得て行った兼業の事例を掲載していく。
公務員兼業の許可基準は、相変わらず不明瞭な部分が多いが、少なくともここに載せたものについては正式に許可が降りている。
つまり、基準をクリアしているということになる。
自身の兼業を考える際や、不利益な扱いを受けた際に反証する材料として、役立ててもらえたら幸いである。

育児漫画の書籍化
・ 申請の際に留意した点 
依頼書および申請書に、出版の趣旨として男性の育児参加や育休取得への理解を深める一助としたいことを強調。
育児漫画の内容に対する評価や、男性の描き手は希有であること、SNSのフォロワー数から多くの支持者がいることなどを示し、公務員としての信用失墜の恐れもないことを記した。
・ 作品
パパが育休とってみたら妻子への愛が深まった話 | パパ頭 |本 | 通販 | Amazon


自動車事故防止を目的としたサービスのPR漫画執筆
・ 申請の際に留意した点
依頼書および申請書に、交通事故防止は学生の安全な登校とも関連が深く、これに取り組むことは子どもたちの利益となること、また社会課題解決に取り組むことは公民科教員にとって大きな使命の一つであり、本務との繋がりも密接であることを強調した。
・ 作品


育児の男女共同参画促進を目的としたウェブメディア記事執筆
・ 申請の際に留意した点
依頼書および申請書に、日本では男女の不平等が問題視されており、特に育児に対しては関心が高まっていること、育休を実際に取得したものがその経験を記事として発表することで、経験が共有され実社会に利益を還元することが可能である点を記した。
・ 作品
www.e-aidem.com


自動車事故防止を目的としたサービスのPR漫画執筆
・ 申請の際に留意した点
同内容について過去に許可された例(本記事の②に該当)があったため、それにならう形で申請した。
・ 作品


地方自治体からの男性の育休取得経験についての講演
・ 申請の際に留意した点
国の主導する男女共同参画週間に伴うイベントでの講演であること、および地方自治体からの依頼であることを示し、信用失墜の恐れはないことを記した。
土曜日の実施であったため本件には直接関係なかったが、こういった地方自治体からの依頼については許可をいただきやすいだけでなく、実施日や準備日については職免の適用内であることを管理職より教わった。
・講演の動画
www.city.fuchu.tokyo.jp


育休取得を通じて得た気付きについてのウェブメディア記事執筆
・ 申請の際に留意した点
育休と言っても取得者は男女双方ありうるが、特に男性の育休経験に対する社会的関心が高まっていることを強調した。
ウェブメディア記事執筆は過去にも許可をもらった実績があったためか、以前と比較して詳細を書かずともすんなり許可を得られた。
判断に要した時間も短く済んだ。
・作品
media.lifull.com

ウェブメディアへの育児漫画連載
・ 申請の際に留意した点
ウェブメディアを通じた漫画の掲載自体は過去にも事例があったが、連載については初めてのことだったので、その期間については認識にずれが生じることのないよう正確さに気を払った。
今回のケースについては一年間の連載ということで許可をいただいた。
不定期連載などの場合はまた少し事情が違くなるのかもしれない。
・作品
gyutte.jp

育児系のYoutubeチャンネルへの出演
・ 申請の際に留意した点
Youtubeというメディアの性質上、漫画や記事の投稿以上に不特定多数の目に触れる可能性が高いことを考慮し、信用失墜にあたるような内容を含んでしまうことのないよう事前に依頼者側とは入念に打ち合わせした。
また申請の際にもその点は丁寧に文章化していただいた。
・作品
www.youtube.com

ウェブメディアからの取材
・ 申請の際に留意した点
これまで多くのメディアの取材を受け、記事を書いていただいてきたが、いずれも無報酬であり、兼業という形に当てはまらないものであった。
ただこちらのケースについては、取材そのものに対して報酬を支払いたいという申し出があったため、申請をだす運びとなった。
これまでのケースと同様、男性の育児参加や育休取得への理解を深める一助としたいことを強調、スムーズに許可を得ることができた。
・作品
woman.nikkei.com

セクシャルマイノリティ大会での講演
・ 申請の際に留意した点
講演については、以前地方自治体からの依頼に関して許可を得たことがあったが、今回の依頼元は民間の団体であり、また形式もオンラインによるものであった。
セクシャルマイノリティの方の権利保障や、相互理解促進など、公共性の高い依頼であることを強調した結果、スムーズに許可を得ることができた。
・作品
講演そのものについては期間内に料金をお支払いいただいた場合にのみ視聴可能だが、大凡の内容については以下ページからも確認できる。
sites.google.com

【許可をいただけなかった兼業例】

家事負担経験を目的とした住宅用洗剤のPR漫画執筆
・不許可となった理由
不許可通知には「学校職員の兼業等及び教育公務員の教育に関する兼職などに関する事務取扱規程第5条第5号に該当するため」との文言が記されていた。
こちらの規定については以下から確認可能。
学校職員の兼業等及び教育公務員の教育に関する兼職等に関する事務取扱規程
該当条文には「兼業しようとする団体等の事業又は事務に従事することによって、公務員としてその職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となると認めるとき」とある。
文書という形では示されなかったが、申請に際しやり取りのあった担当職員との会話の中で「住宅用洗剤全体のPRなら良いが、特定企業、特定商品のPRをすることは認められない」との言葉があった。

家族写真を中心としたふぉとサービスのPR漫画執筆
・不許可となった理由
学校職員の兼業等及び教育公務員の教育に関する兼職などに関する事務取扱規程第5条第5号に該当するため
担当職員から口頭にて「特定企業、特定商品のPRをすることは認められない」との言葉があった。
以前にも同様の理由で住宅用洗剤のPRが不許可になったことがある。
一方、交通事故防止のための保険商品のPRについては許可をいただいたことがあり、財はNGだがサービスならOKという区別があるかと思い申請したものの、こちらのサービスは通らなかった。

オリジナルグッズの製作
・不許可となった理由
学校職員の兼業等及び教育公務員の教育に関する兼職などに関する事務取扱規程第5条第5号に該当するため
担当職員から口頭にて「特定企業の利益となるものは許可できない」との言葉があった。
特定企業の特定商品をPRすることは許可できない、というこれまでいただいた話をもとに、「ではいっそ自分でデザインしたグッズであればどうか」と思い、いただいた依頼を申請してみたものの、これまでと同様の理由での不許可となった。
制作に当たって特定企業の協力を得る点が理由となったようで、全て自主制作であれば通るかもしれないとのことでもあった。
しかしながら、何を作るにしても、一切企業を通さずに完成までこぎつけるというのは極めて難しいように思う。
特定企業の利益を一切生まない仕事というのは成立するのだろうか。

KADOKAWAの運営する講師派遣事業への登録
・不許可となった理由
やや複雑な要素を含むため、始めに実際にいただいた回答の写真を掲載する。

回答

まず今回のケースの扱いについて、都は「報酬を得ての業務」ではなく「営利を目的に私企業を営む自営」であるとしている。
講師登録自体には報酬を得たり、逆に料金を支払うといったことは発生せず、雇用契約を結ぶといったこともない。
そのため私としては、講師登録をした上で企業から具体的な依頼が発生した段階で、兼業申請にかけるといった流れになる可能性もあるかと思ったのだが、自営とのことであるとこのプロセスは経ないことになる。
では自営の場合どう判断されるのかということだが、ここででてくるのが写真にもある兼業規定留意事項等通知になる。
詳しくは以下を確認ください。
www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp
長文だが、関係しているのは第2条第1項関係の(5)イの部分である。
要約すると、不動産や駐車場の賃貸以外の自営を行う場合、以下の4つの条件を全て満たす必要がある。
①利害関係がない
②本務の遂行に支障がない
家業を継承したものである
④信用失墜に当たらない
今回のケースはこの条件のうち、③家業を継承したものである、を満たしていなかったので不許可とのことであった。

不勉強のためわからないことが多いのだが、判断に対して素朴に感じたところを2点書く。
1点目、自営の判定が釈然としないように感じた
営利を目的とした私企業を営んでいるのと同じ扱いとのことですが、個人的にまだ綺麗に整理できていない。
2点目、自営に対する許可の基準に疑問を感じた
家業の継承が条件に入っているのだが、こうなるとほぼ身動きがとれないように思う(そういう趣旨なのかもしれないのですが)。
また不動産や駐車場の場合は、③の家業継承が条件から外れるのですが、このあたりもどういった狙いがあるのか、勉強の必要を感じた。

X(旧Twitter)での広告収益配分
・不許可となった理由
これまでと同様、特定の企業の利益となるような業務については許可をだすことはできないとのことであった。
正直許可については難しいだろうと予想はしていたが、こういった収入形態についてはXに限らず間口が広く、もしかしたら関わる方も少なくないのではと考え、その理由の部分を伺った。

大手ブログ会社でのウェブ漫画掲載
・不許可となった理由
報酬は、執筆料(漫画作品に対して会社から支払われるもの)と広告料(ページのクリック数に応じて支払われるもの)を合わせて支払われる形であったが、後者の広告料が特定の企業の応援に当たり、公務員としての公平性を欠く恐れがあるとのことで不許可となった。
恐らくこの理屈が採用される以上、Youtube等の活動で広告収入を得るといったパターンについても、不許可となるものと思われる
また広告がNGであることを踏まえると、そもそもインフルエンサーといったような方向性は、公務員の兼業とは相性が悪いということにもなりそうである。

【おわりに】
今後も、新しい事例が増えたり、誰かから質問や要望があった際には更新していこうと思う。

訴訟時から繰り返し述べていることだが、私は学校教育は学校の中で完結すべきではないと思うし、そこで働くスタッフである教員も潜在能力を十二分に発揮すべきだと考える。
教員が伸び伸びと働くことは、子供たちの成長にも還元されうる。
社会から求められ、手腕を発揮できる場があるのであれば、それを応援したい。
私の経験が少しでも役に立ってくれたら幸いである。

教育公務員の兼業のあり方を問う訴訟 結論

約1年に渡る「教育公務員の兼業のあり方を問う訴訟」が終わった…!
ここでは関心を持ってくださった方や、応援してくださった方に向けて、事の顛末を説明したいと思う。
 
初めに結論から申し上げると、本訴訟は「取り下げ」という形になった。
応援してくれた人や後に続く人に対し、できるだけ多くを還元できるよう努力した結果ではあるが、一方で全てが期待した通りに進んだわけではなく、この結論に至るまでの間には葛藤があった。
以下順に説明していくこととする。
 
本訴訟では、漫画書籍化の兼業申請が、十分な説明なく不許可となったことに対し、その処分の取り消しを求めた。
私は、公務員の兼業は法律上規制がかけられているものの、その一切が禁じられているわけではなく、信用失墜や職務専念義務に反する恐れがない場合には認められるものであると主張。
不許可となった背景には何かしらの理由や基準が存在しており、訴訟を通じてそれを明らかにすることで、理由や基準の妥当性についても議論することができると期待した。
しかし、やり取りを経て先方から最終的に示された主張は以下のようなものであった。
 
「原告は地公法に基づき兼業の申請を行なったが、提出された情報が不十分であったため、可否の判断をすることができなかった」
 
詳しく解説していく。
私は、所属先にて兼業の内容を説明、その上で申請書類をいただき、必要事項を全て記入し提出した。
更に、数度に渡る校長とのやり取りを経て、内容の加筆修正も行なった上、補足資料として、企画意図や報酬、業務内容や業務量が記された書類を添付、校長に提出した。
補足資料の作成については十分に時間をとり、書籍化を持ちかけてくださった企業の方にも協力いただいた。
しかし都教委は、それら添付資料については一切受け取っておらず(全て校長のところで止まっているということ)、都教委に提出されたのは申請書類のみであって、そのため情報に不足があり、判断そのものができなかったと主張した。
ちなみに、本件については、当初の申請に加え、私が質問状を提出したり、弁護士の意見書を加えた二度目の申請を行うなど、繰り返しやり取りが行われており、所属先と都教委との間でも何かしらのやり取りがあったものと思われるが、都教委としては、裁判にて先方から提出された一部資料を除き、一切の記録は残っていないとのことであった(仮に裁判所が開示請求をだしたとしても、開示するもの自体が存在しないことになる)。
 
この主張に対しては、個人的に思うことが少なくとも3点ある。
まず兼業の申請書類について、この書類は兼業の可否を判断するために提出するものである。
私は必要事項の全てを記入し、校長にも確認いただいた上で、適宜修正まで加えてこれを提出した。
にも関わらず、判断に足る情報に不足が発生してしまうのであれば、そもそも申請書類としての要件を満たしていないのではないかと思う。
 
次に判断の過程について、兼業の可否に対し、判断に必要な情報に不足があったのであれば、都教委は情報の提出をするよう求めるべきだったのではないだろうか。
少なくとも私は、判断に必要な情報を校長には提出していた。
校長を飛び越して、直接私が都教委に何かを提出することはできない以上、最低限問い合わせるなどしてくれない限り、私の方では為すすべがないことになる。
都教委と所属先とのやり取りの記録はほとんど残ってないとまで言われてしまっては、どういった経緯を経たのか、今となっては確認のしようもないことになる。
 
最後に不許可処分について、私は校長を通じて口頭でそれを告げられたが、理由含めて非常に曖昧な扱いであった。
提出された兼業申請について、これを不許可とする場合には、不許可通知が発行されることが、都の内規には定められている。
不許可通知には、不許可の理由や、不服申請の手続きなどの情報が記載される。
私は複数回に渡り、この不許可通知の発行を求めたが一切の返答は得られなかった。
情報不足のため判断できなかった、ということすらも、裁判をして初めて知った事実である。
ここまでしなければ辿り着けないというのは、健全な状態ではないように思う。
 
総合的に見て、妥当な扱いを受けたとは思えない。
しかしここでまず確認が必要なのは、とにもかくにも都教委は、兼業の可否について「判断できていない」ということである。
当初私は、判断の末に不許可になったものと考えていた。
ゆえにそこには何かしらの判断基準が存在しており、訴訟を通じてこれを議論できるものと期待した。
しかし蓋を開けてみれば、当の判断はされていないとのことであった。
つまり基準もへったくれもないということになる。
これには大いに弱った。
というのも、訴訟を続けることの意味あいが変わってきてしまうからである。
仮に訴訟を続け、上記したような、「情報に不足があったのならそれを催促する義務があったのではないか」とか「内規に定めのある不許可通知を発行しなかったのは不当である」といった主張が認められたとしても、それは都教委の一連の手続きが問題になるだけであり、兼業の基準そのものについて議論することにはならない。
ましてやそれを明確化することには繋がらないのだ。
更に、私の兼業そのものについても、裁判を終えた後、改めての判断ということになるであろう。
それは恐らく一年以上先のことになるだけでなく、仮に都教委の調査確認不足が認められた状況であったとしても、今度はしっかり調査をした上での再びの不許可となる可能性すらある。
最悪の場合、そこからまた裁判ということにすらなりかねない。
そうなってしまった場合、兼業が絶望的になるのはもちろん、この訴訟に関わってくださった方々に対し、何かしらの成果を持ち帰れる日は、いったいいつになるかわかったものではなくなってしまう…
 
悩ましい状況が続いたが、裁判所による働きがけがあり、しばしの交渉を経て、また別の方向性が示されることになった。
それは訴訟中に再申請を行う道であった。
いずれにせよ都教委は「情報不足のため判断できなかった」という姿勢を崩さない。
しかしあくまで最後まで訴訟を続けるということでなければ、訴訟中に再申請を受けつけるということであった。
そこには実質的に、再申請があれば許可をする、という意図が込められていた。
繰り返しになるが、私は訴訟を通じて何かしらの基準を明らかにするつもりでいたし、判例として残すことで、この記録が後の人にとっての足がかりとなることも期待していた。
取り下げとなれば、それを諦めることになる。
しかし、仮に訴訟を続けても、大変に長い時間がかかるだけでなく、かつ勝ったとしても基準の明確化に至ることはどの道できない。
散々悩んだあげく、私は取り下げることにした。
 
こんな風に書くと、残念な結果になったかのようだが、悔しい思いはしたものの、得たものがある。
訴えの中にもあった書籍化の兼業申請については、許可を得ることができた…!
今まで私は絵に関する兼業について、たくさん問い合わせてきたが、一つとして許可を得たものはなかった。
書籍化は、私の絵に関する兼業許可、記念すべき第一号となった!
ということは、少なくともこの条件であれば兼業は通る、ということになる。
私が訴訟続行をやめ、取り下げを選んだ理由がこれであった。つまり…
 
実績を積み上げることで、実質的に兼業の基準を明確化していくことができるということ…!
 
訴訟を続け、仮に勝訴できたとしても、相手を打ち倒すだけであり、基準を得ることはできない。
それならば、道を変えても基準に近づける選択をした方がいいと考えた。
私の目的は、相手を倒すことではないのだから。
私は今後、育児や男女平等、教育などに関わる様々な兼業にチャレンジしてみたいと思っている
そしてそれが許可される度に、実績としてそれを公開していく予定だ。
具体的には、業務内容や業務量、追加で提出した資料や、申請の際に留意した点など、詳細をこちらのブログにあげていこうと思う。
すでに書籍化以外にも、交通事故防止を目的としたサービスのPR漫画について許可をいただき、Twitterでも公開した。
そんな風に実績を積み重ねていくことで、応援くださった皆さんにも還元していけたらと考えている。
少しお時間をいただくかもしれないが、近いうちに兼業の実績をまとめたページを作るので、皆さんにはそちらをご確認いただき、ご自身が兼業申請する際の参考にしていただいたり、不利な扱いを受けた際には、過去に認められたケースと齟齬がないか反証する材料として役立ててもらえたら嬉しい。
 
私は、公務員の兼業について、一定の制限があることに納得している。
しかし制限をかけるのであれば、基準は明確であるべきだと思う。
曖昧な状態は、働き方の幅を狭め、それぞれの人が持つ可能性を潰してしまう。
より妥当な基準を作る、その一助となれるよう努力していきたい。
 
最後にではあるが、改めてこの訴訟を支えてくれた全ての人に感謝を申し上げたい。
私は皆さんの期待に、完璧には応えられなかったかもしれない。
自分自身の至らなさには本当に悔しい気持ちを持っている。
しかしそれでも、もしも何かしら還元できるものが生じているとしたら、それはこれを読んでくださっている皆さんのおかげであることは疑いようがない。
家族、弁護士、call4のスタッフ、クラファンに出資してくれた方、応援のメッセージをくださった方、そして漫画の読者の皆さん、どれ一つ欠けてもここまで活動をやりきることはできなかった。
私は本件を通じ、世の中のシステムと向き合い何かを提案することが、いかに精神的経済的時間的にコストがかかることなのか、心底痛感した。
しかしそれゆえに、社会的な連帯が大きな意義を持つことを、深く理解することができた。
個人の経験を広く共有し、議論し、より良いあり方を考えていく、そのプロセスは、結果そのものよりも価値があると感じる。
関わってくださったすべての方へ。
ありがとうございました…!
 
いただいた支援金の余剰分は教育系NPOに寄付する形で準備しております。
支援金の使途については近く報告させていただきます。
訴訟資料は全て、以下のサイトにて公開しております。